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2019年11月03日21:48

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武道随感  馬庭念流の見学に行く

 群馬県高崎市の馬庭駅近くに、馬庭念流の道場がある。そこは毎週日曜日午後2時〜5時まで稽古をしていて、見学は自由。ということになっている。

 念流は相当に古い流派だが、その念流を学んだ樋口定次という人が念流八世の印可を受けたので、ここから馬庭念流が始まる。もっと詳しいいきさつは色々あるんだけど、今回はスルーで。

 で、道場それ自体も古い感じの建物なのだが、時間になって開いたので、そこのお弟子さんらしき人に見学の旨を伝えた。その時に、自分が少し武道歴があり、特に現在奥さんと一緒に薙刀をやってることを話すと、その眼鏡をかけたインテリ風のお弟子さんも、こちらに少し興味をもったようだった。

「うちには剣の他に、薙刀、槍もやるんですよ。お見せしましょうか」
「是非!」

 と言ってもってきてくれた薙刀は、総木製のかなり太い柄のものである。しかし際立っていたのは、その刃部の部分で、そこだけ膨らんだ上に太くなっている。重量は完全に、そこが一番重たい。僕らの全日の薙刀よりはるかに重く、かつ先端部の重量感は比較にならないほどだった。

「本物は先端が金属だから、それに合わせて重くしてあるんです。自由に振ってみていいですよ」

 と言われるので、庭先で散々振ってみた。普段使ってる薙刀がいかに軽いか判る。と同時に、例えば八相からの側面などで、「体を変化して、薙刀は最後に出る」というような教えの意味がよく判った。

 薙刀自体を真っ先に動かすような使い方は、軽いものだからできることなのだ。先端部が重い薙刀は、本当に「一番最後」でないと動かせない。踏み込んで、体を変えて、それからようやく重い切っ先を動かす。切っ先を動かすのは、最後でないと無理なのだ。なるほど、と思った。

 見ていたお弟子さんが、「あ、さすがにやられてる方ですね。手首の使い方が柔らかい」。というので、恐縮していたら、「けど、うちの流派では、手首を柔らかく使うことも、それからさっき振っていたような持ち替えもほとんどないんですよ」と言う。え〜!

「しかもうちの流派では、薙刀も剣と同じように扱うので、右構えです。しかも持ち替えません。これは槍も一緒です」
「そうなんですか〜」

 念流、というのは、百姓に教える剣術流派であり、その技術も素朴なもの、というのがよく解説されていることだ。しかし僕は、それは大きな間違いだと知ることになる。

 念流の特徴の一つに『体中剣』というものがある。後ろ重心で、ヘソから剣が出てるように構える独特の構えが、その『体中剣』の証なのだ。眼鏡のお弟子さんが木刀を構え、「先端を押してみてください」という。言われた通り押し込んでみるが、ビクともしない。

 「どうぞ、やってみてください」、というので、僕も構えてみた。お弟子さんが先端を押し込む、実は僕は、こういう力には強いので、ビクともしない。「あ、かなり強いですね」と、感心したようにお弟子さん。

 実はこれは養神館の合気道で、「中心力」と言われるものだ。合気道は前重心なのが違うが、足を「ハ」の字に開くなど、念流と類似点がある。合気道で構えたところで両手で前手を持ってもらい、中心に押し込む。それで動かないと、ちゃんと体ができたと見做されていた。

 そして道場の稽古が始まると、とにかく気合が凄い。

「ェエーイッ!」
「トオーゥッ」

 と、かけあう声が凄い。お弟子さんの話では、駅に着いた時に聞こえる声で、「あ、今日は○○さんが来てるな」とか判ったとかいう時代もあったそうだ。ちなみに、駅からは結構離れてる。

 しかし、何より凄かったのは、その型の真髄だ。

 念流では、型の中で最終的に勝ちを得る方を、「ツケ」といい、負ける方を「ウケ」という。剣道なら仕太刀・打太刀、合気道では仕手・受け…など流派によって呼称は様々だが、「ツケ」というのは珍しい。で、ウケ、つまり負ける側が通常高段者がやる。

 ウケは八相に構え、大股でにじり寄る。ツケの方は上段に構え、これもまた大股で近づいていく。ちなみに念流の上段は、普通の剣道の上段とはまったく異なる構えだ。剣を左上に構え、しかもかなり剣を寝かせている。その高さは、左の肩くらいまで上げられており、実際に見ると想像以上に高い。

 そしてこの切っ先は、その延長線が相手の眉間につけらるようになっている。これが相手の「しん」をとる、という念流独特の教えに直接関わる。ウケが八相から切り下すと、ツケはほとんど直進するように踏み込んで、相手の剣をそのまま弾き突く。そしてその切っ先は、相手の眉間にピタリとつけられるのだ。

 表の型は、一本目が上段、二本目が下段、三本目が再び上段で、四、五が無構えだ。この無構えは、手に持った剣をだらんと下に落としただけの形に一番近い。で、相手の切り落としに対して、かならず一合目で相手の「しん」をとる。これについてお弟子さんは解説してくれた。

「つまり相手の『しん』をとれるということは、いつでも切れますよ、それでもまだやりますか? という形なんですね。うちはよく『攻めではなく守りの剣』と紹介されてますけど、そうじゃないんですね。能動的に斬らないだけで、「もう切るまでもないでしょう」と相手に判らせて、戦いを止めさせる、そういう流儀です」

 恐ろしいのは、薙刀でも剣道でも、型の演武の際には開始線がちゃんとあって、そこから踏み出してやりとりをする…というような事が決まっている。しかし念流では、見たところまったくそういう開始線がなく、完全に目算で始めている。しかも相手の歩幅は千差万別。僕はその事をお弟子さんに聞いてみた。

「あれは、その時々で間合いを合わせてるんですか?」
「そうですね。相手の近づき方とかを見つつ、相手の踏み込みに合わせる感じです」

 それでいて恐ろしいのは、勝負は必ず一合目で決していることだ。二本目、五本目の型は、最初の合わせからの展開があるが、はっきり言って一合目で勝負を決するこれこそ極意だ。お弟子さんは、こうも言っていた。

「うちは特に奥義みたいのがないんですよ。迷ったら、とにかく最初に戻れ、という教えなんです。田舎流派っぽいでしょう」

 いういやいやいやいや! 恐るべき無駄のなさ、ここまで実践的なことだけをやって、ぜい肉をそぎ落としている教えというのは本当に凄い。さらに言うと、『型稽古』というのも、ちょっと語弊があるくらいだ。というのも、例えば一合目で合わせた時、上段者が後輩を、さらにそこから押し込んだりしている。

 そこで押し込まれても崩れないだけの体幹力を要請しているのだ。しかも相当の高弟さん同士になると、ウケの側なのに、『しん』を取りにいっている。完全に、そこは勝負の世界になっているのだ。

「あれ、試合と変わらないですね」
「いやあ、そうなんですよね。だから、一つ通すと、ものすごい消耗することもあります」

 そしてしばらくすると、先生が出てきた。順番にお弟子さんたちを、型をやる。ふと、奥さんが先生を正面から見える位置に移動する。む、いいところに気がついたな! こちらも移動だ!

 で、先生を正面から見ると、ほとんどの場合、先生が「しん」をとっているのだ。何気なく出しているのに、勝負では完全に打ち勝っているのである。それにその構えの姿勢のとてつもない安定感と重量感。中心力の強さ。正直、恐るべきものだった。

 途中でお弟子さんが、念流において有名な「そくい付け」という、「相手を動けなくする技」について解説してくれた。

「あれはつまり、力が拮抗しておきる『現象』というほうがいいかなと、思ってます」
「現象ですか」
「そうですね……ちょっと手刀を合わせてみてください」

 といって手刀を出すので、僕も手刀を合わせた。

「これで中心の攻め合いになった時、力が拮抗する、そういう時に、『そくいづけ』の状態になるんですね」

 と、お弟子さんは説明してくれた。なるほど〜、と思ってその時は帰った。が、僕はなんか帰ってからふと思った。…あれ? もしかしたら、ちょっと試されたのでは? というか、興味を持たれて、ちょっと確かめようとか思われたかな。期待に応えられたならいいけど。

 しかし、古流の本当の凄みの一端に触れてとても面白かった。いやあ、凄いな、の一言である。



 

 
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