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2020年02月10日07:22

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「文学芸者」

大阪の芸者さんは一時いなくなったけれど、現在は一人頑張っている若手が居て、最近後輩も出来たとテレビで言っていました。奈良の自宅からはスニーカーにジーパンで電車通勤ですが、出勤後は身ごしらえから始まって全部自分一人でやる上に、踊りや歌の稽古、作法などおさらいしながら、お座敷も務める立派な方ですが、その昔大阪が「商都」であったころの大阪北の新地に生まれて、当時の首相伊藤博文に可愛がられた「小吉」の話が載っていましたのでご紹介します。日経新聞2月8日朝刊、「詩歌教養」欄の「書物の身の上」に出て来る「樋田千穂」さんのことです。

(引用開始)

 千穂は大阪の弁護士会の会長を父に、大阪北の新地の名妓を母に生まれた。生まれるとすぐに会長宅に引き取られ、蝶よ花よと育てられた。しかしお定まりのお嬢様ではない。ある日裁判に敗れた側の用心棒二人が、嫌がらせのために来た。玄関先に寝転んで、梃子でも動かない。主人を呼べと凄む。小学生の千穂が出ていき、お行儀の悪い真似はよしなさい、学校でも教わらない、とたしなめた。用心棒が目をぱちくりし、起き上がる。千穂がお菓子を持ってきて、お子さんの土産にしなさいと渡した。これには大の男が涙ぐんだ。

 十二歳の年に父が事業に失敗し破産、行方をくらまし、義母と二人裏長屋の移り内職生活、十八歳、望まれて銀行頭取の長男と結婚する。幸せな日々で、男の子も生まれたが、夫が病死、夫の弟に言い寄られ実家に逃げかえる。子と心中まで思い詰める。母方の姉と妹に説得され、芸者家業を決意する。しまいは北の新地の売れっ子だった。芸名を小吉と命名。必死で踊りや唄の稽古に励む。銭湯でもお茶屋の女中の肩を流し、芸名を売り込んだ。人と違ったことをしなければ目立たない。子供のころから本が大好きで、小説家になりたいと思っていた。読書で得た知識を、お座敷で生かした。客の姓名を織り込んだ歌や俳句を、即興で詠み披露した。万朝報紙の懸賞小説に応募し、特賞を獲得、評判になった。

 時の首相・伊藤博文が大坂に立ち寄った際、好奇心から小吉を呼んだ。絶妙の座持ちに心を奪われ、以後目をかけた。「伊藤公の寵愛を受けるようになりました私は『おのしおのし』と呼ばれて重宝がられ、あちらこちらへお供したり、寛ぐ折のお相手を努めてまいりました」自伝『新橋生活四十年』の一節である。この本は昭和31年(1956年)学風書院より刊行された。著者名は田中屋千穂、小吉は伊藤博文はじめ桂太郎首相らの政治家や、大倉喜八郎、渋沢栄一などの財界人、六代目尾上菊五郎らの芸能界のひいきを得て、押しも押されもせぬ一流の芸者に成長した。自伝を出版したころには、東京新橋の待合茶屋「田中家」の女将である。

 千穂はそのほかに「女将」「草もみじ」などの自伝を出版している。「女将」の中の挿話で、「大阪の芸妓時代、一滴も飲めない酒を無理強いされた。断っても酔客は承知しない。体に入れればいいんでしょ、と開き直った。着物の襟もとを広げ、大杯の酒をざばり。豪快にして色っぽい。

(ここまで引用)

 いかがでしたか?一流の芸者さんは一流の人たちに囲まれて成長していき、開花するものなのだろうと思います。それにしても戦後霞が関の一極集中政策で、大阪の名門企業が東京に移転し、新幹線や飛行機の時代になっても、帰ってきませんでした。それに伴い北の新地の凋落ぶりは見るに堪えません。昭和の時代までは「大阪時雨」や「宗右衛門町ブルース」「雨の御堂筋」などが歌われ、少しは雰囲気が残っていましたが、今では町の姿もすっかり変わって、これでは安倍首相も麻生副総理も来ていただけないだろうなぁとあきらめムードです。「知性と教養」のバトルを楽しむところではなく、カラオケをがなり立てる巷になってしまったのですから。でもやっぱり、政界や財界、芸能界の大立者を育てる街の伝統を育んでほしいなぁとしみじみ思います。

 「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」。気品のかけらもありません。どこにも「天下国家を論じる気迫」が見当たりません。1279年の歴史は何かが廃れるのは、「何か新勢力が起こって取って代わられたとき」だったのですが、今の時代「下剋上」もなく、すたれるままになっているような気がします。昭和の才女は山口洋子さんではなかったかと思います。粋で洒脱でエスプリの利いた、チョイ悪な精神が垣間見える小悪魔は芸能界に取られたり、女性の社会進出で実業界に行き、「花柳界」には見向きしなくなったのでしょうか?心の余裕も大事だと思うのですが・・・。
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