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2019年08月05日07:33

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「異次元の話」

 「慰安婦問題」や「徴用工問題」など日韓で「知らない者同士が言葉で理解し、想像で膨らませて議論を戦わせ」ていますが、土台、初めから二人の作者の違う「桃太郎の話」のようなもので、全然実際とはかけ離れてしまっています。今日は、今ではほとんど語られることのない「娼婦=当時は殆ど慰安婦とは言われなかった。酌婦とか女郎などと言った」の背景について話してみたいと思います。

ここに中国の今の農村貧困地帯の動画がありますが、戦前の日本の農村も家が「ヤオトン」でこそありませんが、暮らし向きはほとんどに通っていますので、のぞいてみてください。日本のあちこちに見られた風景です。



 戦前の日本の暮らしはとても貧しかった。殆んどの国民は農家で暮らしていた。電気もなく石油ランプで、電化製品は一切なくあれば裸電球のみだった。農家は農機具もなく全部手作業であり、そのため農家では夜明け前から野に出て働き、ガスもなく山で取ってl来た薪でご飯やお風呂を焚いた。道端の川で洗濯をし、鶏やウサギを飼った。しかし道路は舗装されておらず、ユンボのような重機もなく、地域の「部落」ごとに結束して「道普請」や「家普請」「田植え」「稲刈り」などの作業は、殆ど「共同作業」でした。さらに耕す土地は地主さんから借りた「小作農」が圧倒的に多く、出来たコメは「供出」させられて、麦や粟を食べる暮らしで、わずかばかりの家の周りの土地で作った野菜や果物がこずかい稼ぎになりました。サラリーマンと違って秋の収穫期が来なければ現金収入がなく、多くの買い物は「節季払い」と言ってお盆と大晦日に払うのが一般的でした。

 ですから、生活に余裕がありません。着物も反物を買ってきて自分で仕立てます。桑の葉を取ってきて蚕を育てます。洗い張りから染め替えまで全部自分でやります。朝4時ごろに起きて夜は12時ごろまで「夜なべ」で働きます。自分で育てた大根やなすびの漬物を漬けたり、笊や籠を編んだり、「自給自足」しますので、買うのは鍬や鋤、鎌やモッコ、それに馬車や馬などです。ですから病人が出たり、家が壊れたり、子供が学校に行ったりしてお金が必要となると「借金」せねばなりませんが、当時は「金融機関」が個人に融資する」と言う仕組みがなく、もっぱら「勤倹貯蓄」で「郵便貯金」を貯めて置くしかなく、お互いが集まって「舫い」を作り「頼母子講=メンバーは毎月5千円ぐらいを掛け金として集め、その集まった金額をメンバーの一人が落とす。それを順番に繰り返しまとまった家具や着物などを買う」などで生計を建てていました。

 当時は日本の人口はまだ朝鮮、台湾を含めても8千万人ぐらいしかいませんでしたが、税金は「国民の福祉]に使うモノではなく「国家建設」に使うものでしたから、朝鮮、台湾,樺太、満州のインフラ整備や軍隊の強化などを強力に推し進めており、分けても民間資本が育っていませんでしたから、多くの場合国家予算で「国営企業」を立ち上げて、民間に「払い下げる」形で「財閥」が形成されてゆきました。ですから、義務教育を終えた小学校や尋常高等小学校を卒業して、家の近くで就職しようとすると、「警察官」「学校の先生」「国鉄職員」が憧れだったのです。その多くは農家を継いで、朝から晩まで自然を相手に必死で働く、でも台風や「ヤマセが吹く冷害」などで作物が全滅するとたちまち生活に困窮して、食い扶持を減らすために子供を子守に出す。当時貧しくても「貧乏人の子沢山」と言われ、乳幼児死亡率が高かったこともあり、生活が厳しくて避妊具が買えず「荻野式」などで安全日を計算してと言うのが一般的で、多くの場合娘さんが一家の犠牲にされました。

 当時「口入屋」と呼ばれる女衒が遊郭と農村の間を回って、「新玉」の補給をつかさどっていました。当時は「人身売買」とは言われませんでした。農家が困ったお金を借りる「前借金」を借り、苦界に身を沈めた女性が「働いて返す」と言う建前になっていて、中にはお客さんに気に入られて「前借金の返済」を建て替えて「身請け」してもらって「妾」になる人も多かったです。でも肉体労働がきつい上、年増になるとお客が減るので、廃業する人も多いですが、そのころには手に職もなく苦労したと言います。遊郭暮らしが長引くのは、日常の生活費がかかるうえ、客商売ですから着物代や化粧品、それにお医者さんにいつも検査を受けなければならず、その証明書がなければお客が取れなかったなどの諸経費が重かったと言います。

 日韓併合になって朝鮮も日本の一部にはなりましたが、本土と比べて灌漑用水や道路さえも整備されておらず、はげ山だらけで、「生活水準」が違うので、貧しかった九州や東北と同様朝鮮半島からも大勢の男女の若者が本土に出稼ぎに渡ってきました。男性は土方や炭鉱夫、女性は織工や酌婦など「生活の為」に稼ぎ「故郷に錦を飾る」ことを目指しました。昔は一族が部落に固まって助け合って暮らしていましたから、成功して田舎に土地を買い、御殿を建てて暮らすのが「成功者」だとして崇められ、「顕彰碑」などが建てられて、地域の名士、名家に数えられることが名誉だったのです。

 したがって、日本中の都会には「遊郭」があり、表を通れば「お兄さん、遊んでいきなさいよ!」と声をかけられ、つかの間の「恋人ごっこ」を楽しむカラッとした遊び場だったのですが、戦後「赤線廃止」となって「非合法化」されたために、世間の見方もガラッと変わってしまって、今では「慰安婦=朝鮮人」みたいに思われがちですが、それはほんの一部であり、多くの日本人客は日本人の女性を好みました。やはり言葉の発音が違うと、少し気分は削がれます。

 少しはご理解の助けになりましたでしょうか?今でもドイツやオランダでは「遊郭」があり、「公娼=検査を受けたお嬢さん」と「私娼=無届の潜り」が頑張っています。
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