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2021年02月27日00:22

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自分史 の 続き

 ぁ_須賀はすばらしい!

 結婚が決まって初めて横須賀に来た時義母が連れて行ってくれた結婚式場に隣接する中央公園からの海の眺めは 海のないところで育った私にとって忘れられない感激でした。どこの観光地より海の眺めがすてきでこの近くに住めることが本当に嬉しいと思いました。ここで暮らして48年になり景観は少しづつ変わりましたが 今も大好き。思い出がいっぱい詰まった大事な心のよりどころです。♪みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える白い船 汽笛がぼ〜っとなりました♪ 雪に苦しんだ義父が温暖な横須賀に居を構えてくれたおかげで、今につながるありがたさに感謝しています。義父は戦後 シベリア抑留生活を強いられ帰国後、山形に疎開していた家族を呼び寄せ横須賀に落ち着きました。昭和24年(25年?)のことです。戦時中の話は聞いたことはなかったのですが、酔った時に♪遠く離れた異国の丘で 友よ辛かろう切なかろう♪を歌い始めると 体格の良い大の男がボロボロ涙を流して泣き出す姿は忘れられません。私の息子達は抑留生活の悲惨さの一部をを聞いていました。きなこを水で溶かしただけの汁をお椀で1杯、1日2回だけということもあったそうです。手の甲の皮を摘まみあげてみせ、体全体がそんな感じだったということ。息子は「おじいちゃんがシベリア抑留から帰ってこられただけで尊敬する」と言いました。また、私の3人の叔父も戦争体験者ですが話を聞いたことはありませんでした。一人の叔父は晩年 施設で過ごしました。お見舞いに行った時 手と足もベッドにくくり付けられていたのです。目覚めた時すごい形相で逃げ出そうと発作を起こすそうです。いつもの敬礼の姿が別人になるのです。やむなく縛り付けるしかないのでしょう。こんなことがあってはならないのにどうしようもありませんでした。戦争での怪我が認められなかった叔父 また、義姉の父は帰国後、戦時中から続く病で亡くなり、残された家族の苦労、、。戦争に直接かかわらなくても時代を生きた全国民は自分の一生が終わるまでどこかに戦争の傷を負っているのです。戦争は皆が苦しむだけです。戦争はあってはならないのです。

   ァ^貎佑椶辰舛らの脱出

 娘の結婚式で革靴を履くのは無理だろうからスニーカーで勘弁してもらおう。と 夫は娘の結婚式に出席するつもりで頑張っていました。その結婚式に出席叶わず11日後に病院で亡くなりました。同じ部屋に寝泊まりが許可された私は娘が出勤する前に 病院から自転車で朝帰り、娘と連絡、報告を交わし、小鳥の世話をして、ご飯、洗濯、片づけして病院へ出かけました。(その1年前は離れて暮らす義父の介護をせざるをえなく、静養していた夫は奇跡の復活で 私と二人、朝4時起きして朝昼の弁当を準備して祖父の家に行き仕事に出かける義姉と交代し義姉がもどるまで介護したのでした。夫は車を運転して私を乗せ、義父の家に着くとコタツで寝て過ごしました。それだけで全体力を使い果たしたはずなのに素振りには出しませんでした。心意気で体を動かしていたのでしょう。夫は定年2年前に早期退職し家で静養していました。趣味で小鳥を数多く飼っていましたが世話できなくなり、小鳥屋さんんに引き取ってもらったり、野鳥は家庭菜園(葉山の近くに借りていました)を楽しんだ山に放したのですが、上手く生きのびられたか気がかりです。残った鳥かごの片づけがめちゃめちゃ大変で何日がかりかで私の仕事になりましたが寝ている夫にぶつぶつ文句言いながら、、、今は気持ちよく片づけてやればよかったと心傷みます。その途中でパッと右目が見えなくなったのですが夫を一人にして医者にも行けず後悔しても始まらないのですが疲れきっていたのだと思います。夫が小鳥を好きなわけは山形で暮らしていた子供の頃ご近所の人が飼っていたマヒワに魅かれたのが原点だそうです。鳥かごを整理しても手放せなかったのがセイオウ鳥でした。ひわに似ていて私は鶯のような「ききなし」が好きでした。毎日すり餌を作らなくても市販の餌でよかったので飼えたのです。最後まで私を慰めてくれた心の友でした。娘が結婚して去り、夫が亡くなり、二人の息子は県外に勤務していました。急に独りぼっちの暮らしが始まりましたが一人で生きる設計図は真っ白で、これまでの生活を清算しながら進まねばならないのに 戸惑い、混乱の中をウロチョロ、何かを始めなければ、何もできない。日にちが解決してくれただろうか、何も定まらず、何も始まらなかった。よそ様は何も変わっていないのだから、おはようございますと挨拶すればおはようございますと、おうむ返しのように返事が返ってくる。ご夫婦でスーパーへ買い物や用事で出かける事が多い土、日曜日は家に引きこもった。当たり前だった生活が失われて初めて、私にはもうこの先、二人連れの姿はないのだと思うと、寂しかった。セイオウ鳥のグッドタイミングな鳴き声に”はっ”と我に返り救われました。そんな中、仕事が一緒だった先輩からほとんど毎日のようにはがきが届いたのです。返事を書いて投函しなければ、、、書いてポストまで歩く途中で出会う知人に励まされるのが嫌でした。当たり前の話に背を向けていてはいつまでも脱出できないとわかっていてもなかなか一人で立ち上がれないのです。先輩に返事を出す時 ふと 次男兄は趣味で全国の郵便局の風景印収集していたことを思いだし、自転車で回れる範囲の郵便局で風景印押印を目的に外へでるきっかけができました。はがきにひと手間かけて自分流の作品を作る楽しみがエスカレート、夢中になれました。身近にある新聞紙、広告紙を切り取り、それを工夫して貼って作るはがきにワクワク、そんな中、”春”を感じる美しい色刷り紙面を見てふと、「文字を切り抜いてみよう」と思いつき 春 の字になるように、切りとった新聞紙を半分に折って 春 の文字の形にちぎり、そっと広げてみたら、”わぁ〜春〜 ”。色と文字の形も例えようもない素敵な 春 ができました。それ以来夢中で切り文字を作り続けています。手でちぎるよりハサミで切れば一挙に数枚できました、横並びにできる文字以外に、縦並び、円形、四角形を切ることも、文字の数も紙のたたみ方で変わること、試行錯誤の繰り返しは楽しくて、楽しくて時間の経つのが早いこと早いこと。切り文字作りにたどりつけたことに感謝しています。作ったはがきは常に持ち歩き郵便局を見つけては風景印で自分宛に送ったはがきファイル帳は50冊になりました。日付けと場所がわかるはがき作品の旅日記です。切り文字作品で横須賀で開催されるマイコレクション展に連続8年出展させていただきました。紙わざ大賞では第26回、27回と連続入賞、銀座の交通会館に展示していただきました。また、第3回ガリバーハガキ絵コンクール大人の部で、FМブルー湘南賞を受賞できたのも切り文字の作品です。田中郁子先生ご指導の手紙の集いに入会、先生と仲間の皆様のパートナーの一人として応援していただけたことも私の大切な財産です。
2013年に ”楽しい切り文字”を自費出版
2014年に ”楽しい切り文字&絵パズル”を自費出版
2015年に しづ子の紙遊び ”切り文字&絵パズル”を (株)文芸社より出版
2018年に おもしろくてためになる ”しづ子のぺーパーアート”を (株)22世紀アートより電子書籍で出版
2021年の春に 切って楽しい、見て楽しい、大人も楽しい ”切り文字&絵パズル”を (株)22世紀アートより電子書籍で出版予定
2021年の春に 背中を押されて前向き しいちゃんのミクシィ日記 
明日はきっといい日になる しいちゃんのミクシー日記
おかげさまで、当たり前の毎日 しいちゃんのミクシー日記
悩んでも心は軽く居たいから しいちゃんのミクシー日記
人生ってやっぱり面白い しいちゃんのミクシー日記
2008年から2019年までの日々の日記を年代順にまとめた5冊を(株)22世紀アートより電子書籍で出版予定
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