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2020年09月18日02:35

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愛染明王

【愛染明王】大日如来または金剛薩埵の変化身。円形の光背をつけ、三目六臂の忿怒相、獅子冠をかぶり、金剛鈴、金剛弓、拳、五鈷杵、金剛箭、蓮華を手に、蓮華座上に結跏趺坐、身色は赤。相形は忿怒、内心は大愛至情の本性,息災、敬愛、得福のための修法の本尊。愛欲と貪染をそのまま浄菩提心とする三昧に住する。
【愛染明王、梵: rāgarāja】憤怒相を主とする明王。光背は、燃え盛る日輪「織盛日輪」 、日輪は仏のもつ無上の浄菩提心を表し、燃え盛る炎は智火が煩悩に基づく執着や愛欲をことごとく焼き、衆生が求めるあらゆる宝と財産や、生命を育む、右手の赤い未敷蓮華
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封印された救世観音
法隆寺の仏像の中で最も謎に満ちた仏は、救世観音像であろう。739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音(造仏推定年代は629-654年)は、長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏であった(後述)。江戸時代には、約200年間、法隆寺の僧侶さえ拝むことができなかったという。理由は未だ明らかではないが、僧侶たちは、封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊するという迷信を信じていた。
1884(明治17)年、東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサ(1853-1908)は調査のために法隆寺を訪れた。西洋化を急いでいた当時の日本には、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、その混乱の中で、日本の古社寺に伝わる貴重な仏像や宝物類が失われつつあった。そこでフェノロサたちは、明治政府の元で、公式の宝物調査を行っていたのである。後の文化財保護法の制定や国宝の概念は、この時行われた調査結果に基づいて生まれたものだといわれている。
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救世観音の謎
救世観音秘仏化の謎について考えてみたい。
まず、法隆寺の境内は、推古天皇の摂政であった聖徳太子(574-622)が607(推古15)年に建立した西院伽藍と、739(天平11)年に聖徳太子自身の住居跡に作られた東院伽藍からなる。救世観音は、東院伽藍の中心に立つ夢殿に安置されていた。この夢殿は八角堂である。八角堂は通常、供養塔または仏塔などとして建てられる。ということは、救世観音は、供養を目的として祀られた像ということになる。
737(天平9)年、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなった。これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は、太子が亡くなってから100年以上を経てから、夢殿を建て、太子の供養をしたのではないかという推論がある。それほど太子の霊が強力で、何らかの形で強い影響力が残っていたということなのだろうか。この時に夢殿に祀られた救世観音は、太子の等身であると伝えられており、太子は当時としてはかなりの長身だったということになる(像高は178.8cm)。
さて、救世観音像はクスノキの一木彫刻で、仏師は白土の下地に漆を塗り、金箔を押している。
暗い夢殿の中を覗き込むと、その顔には、かすかな笑みが浮かんでいるように見えた。私には、どこか意味深な、ちょっと不気味な表情のように思えた。『聖徳太子伝私記』によれば、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げたらしい。また、鎌倉時代にこれを模刻しようとした仏師が、像の完成を見ることなく亡くなったという話もある。救世観音が夢殿の厨子に厳重に封印された理由は、これらのできごとと関連がないとは言い切れないのではないか。
法隆寺 封印された救世観音 - 奈良 - Japan Travel
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