mixiユーザー(id:15623721)

2020年03月29日00:46

31 view

トロイの木馬の計略を見破る

【トロイの木馬の計略を見破る】アポローンの神官ラオコーンと予言者の王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラオコーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができなかった。オデュッセウスの策略にかかり、トロイアは一夜で陥落した。『トロイア落城』
【トロイア戦争の始まり】神々の饗宴。エリス(争いの女神)のみは結婚の饗宴に招待されず、怒った彼女は、最も美しい女神へ捧げると叫んで、ヘスペリデス(不死の庭園)の黄金の林檎を神々の宴へ投げ入れた。最も美しい女神はだれか。女神たちの争いが起きる。
【女神の争い】三女神は最も美しい装いを凝らしてトロイの王子パリスの前に立った。女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る力、アプロディーテは最も美しい美女、それぞれ与える約束をした。パリスの審判。『キュプリア』
【パリスの審判】トロイの王子パリスは、三女神から、アプロディーテの最も美しい美女を選ぶ。最も美しい美女スパルタのヘレネー。パリスはスパルタに行き、王妃ヘレネーを誘惑し故国に連れ帰る。王妃を奪還するため、アガメムノーンは、アカイア勢を率いて、トロイへ出港する。

――
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第211回
櫻の森を歩いて、博物館に行く。圧倒する嵐、いかなる危機にあっても、私は運命と戦う。理念を追求する人は、運命と戦い、邪知暴虐な敵と戦い、聖なる目的を成し遂げる。人は運命と戦うために生まれた。「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」。
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【法隆寺の謎、血に塗れた歴史】再建法隆寺はいつ建てられたのか。再建法隆寺はだれによって建てられたのか。天智天皇9年(670)4月「災法隆寺一屋無余」法隆寺が全焼した『日本書紀』。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。壬申の乱(671年)天武は、法隆寺再建とどうかかわるのか。夢殿の扉は、なぜ1000年以上、閉ざされたのか。なぜ、厩戸皇子は48歳で暗殺されだのか。なぜ、山背大兄皇子一族は自害させられたのか。なぜ、厩戸皇子は天武によって「聖徳太子」神聖化されたのか。金堂壁画は、いつ描かれたのか、何を描くのか。
この世の生存競争、利害名利を求める者、邪知暴虐の人が栄える時、天罰下る。邪知暴虐の人が栄え、知ある者が滅びるとき、天誅下るべし。
【上智と下愚は移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者はどんなによい境遇にあっても向上しない。美しいものを美しいと感じる心が美しい。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【権力闘争史】石上神社物部氏と蘇我氏の争い、出雲と大和の権力抗争が根源。物部と蘇我の崇仏論争、物部御輿と蘇我稲目との争い、蘇我馬子、物部守屋を討つ。蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。厩戸皇子暗殺の謎、蘇我蝦夷と厩戸皇子の争い。皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を自害に追いつめる。乙巳の変、蘇我入鹿と中大兄皇子の争い。壬申の乱、中大兄皇子の子大友皇子と大海人皇子の争い。天智系と天武系の殺し合いが始まる。
――
【斑鳩寺607年、若草伽藍、法隆寺693年739年、西院伽藍693年、東院伽藍738年】
1、斑鳩寺の歴史 607年
法隆寺の起源【斑鳩寺】金堂薬師如来像光背銘によれば、斑鳩寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と厩戸皇子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造った。
【607年、斑鳩寺、厩戸皇子】創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)とされる。若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡、この伽藍が推古朝の建立であった。発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説。
【法隆寺再建・非再建論争】『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は厩戸皇子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが【法隆寺再建・非再建論争】若草伽藍の発掘調査により、厩戸皇子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説である。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。

2、厩戸皇子の死と山背大兄皇子一族滅亡
【厩戸皇子、斑鳩寺】厩戸皇子(574年2月7日〈敏達天皇3年1月1日〉-622年4月8日〈推古天皇30年2月22日〉)、厩戸皇子、48歳で死す。
【643年、山背大兄皇子一族滅亡、斑鳩宮炎上】皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った。この時、斑鳩宮は焼失した。斑鳩寺はこの時は無事だったと考えられる。八角堂、夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738年)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立した。

3、法隆寺の歴史 693年、739年
【法隆寺の謎、再建法隆寺はいつ建てられたのか】
金堂の天井板の材の伐採年667年、668年。五重塔の材673年、中門の材699年。壬申の乱(671年)の前後。武澤『法隆寺の謎を解く』P19。五重塔の心柱の材は594年。塔の二層軒下の材は673年。『法隆寺の謎を解く』P33。
【法隆寺の謎、再建法隆寺はだれによって建てられたのか】
壬申の乱(671年)の後。天武天皇と天武妃、持統天皇が、厩戸皇子を神聖化、聖徳太子として命名、再生、利用した。持統天皇7年(693年)法隆寺で仁王会(『法隆寺資財帳』)。
【670年、法隆寺、全焼】『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事があり、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建された。焼失した寺院は、斑鳩寺、推古天皇15年(607年)創建。若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡、この伽藍が推古朝の建立。発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説。
【671年、壬申の乱】671年12月、天智が亡くなると大海人皇子は挙兵を決意する。大友皇子の即位を阻止する。壬申の乱で大海人皇子、大友皇子を死に追いつめ自害させた。
【693年、西院伽藍】金堂、五重塔を中心とする。金堂「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。
【693年、西院伽藍】現存の西院伽藍は、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)。少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成、この頃までに五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していた。
【739年、東院伽藍】天平11年(739年)に行基菩薩、僧行信によって夢殿を中心として建てられた聖徳太子を祀る寺院。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。
――
救世観音像の謎
救世観世音菩薩像、東院伽藍、夢殿に秘蔵された。救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名。名称の由来は「法華経」観世音菩薩普門品の中の「観音妙智力 能救世間苦」の表現にあると推測される。聖徳太子の等身の御影と伝わる。止利様式。鞍作止利は、渡来系の司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。 7世紀の仏師、謎の人。
【夢殿解扉】1886
1886(明治19)年、法隆寺に、外国人フェノロサを代表とする調査使節(岡倉覚三、九鬼隆一)が現れ、明治政府の身分証明書を提示し、夢殿の厨子を開扉するよう要求した。救世観音像を発見。法隆寺650体の仏像の中で、最も謎に満ちた仏、東院伽藍の夢殿に祀られている救世観音像。【岡倉天心1863-1913】美術評論家、思想家。
百済観音の謎
謎の様式、謎の伝来。法隆寺西院、金堂本尊の釈迦三尊像、東院夢殿の救世観音像のような止利式の仏像とは様式を異にする。止利式の仏像は正面観照性が強く、側面感がほとんど考慮されていない。法隆寺の根本史料である天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には百済観音に相当する仏像についての記載はない。本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されていたものか、正確なことは全く不明。法隆寺幡の模様と同一の腕飾り、山背大兄皇子を追悼するために作られたものか。
――
法隆寺の仏像
【法隆寺、救世観音】東院伽藍、夢殿。739年。
【法隆寺、薬師如来】西院伽藍。金堂「東の間」本尊。光背に丁卯年(607年)、用明天皇のために作った旨の造像銘があり、
【法隆寺、釈迦三尊像】西院693年、金堂「中の間」本尊。推古31年(623年)止利仏師作の銘を有する銅造釈迦三尊像。
【法隆寺、夢違観音】大法蔵院所蔵。「夢違」は江戸時代に書かれた『古今一陽集』に「悪い夢を見たとき、この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来する。白鳳時代の金銅像。薄い裳や三面宝冠はこの像が白鳳時代の作の根拠である。金堂薬師如来は推古15年(607)造顕の銘を持ち、古拙な表現であるが、金堂完成後の擬古作説もあり、その銘の信憑性が疑われている。白鳳時代を代表する仏像は、夢違観音の名で親しまれる聖観音像、橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像がある。
【法隆寺、西院。金堂】西院伽藍の中心的な建物である金堂の内陣には「中の間本尊」の釈迦三尊像、「東の間本尊」の薬師如来像、「西の間本尊」の阿弥陀三尊像の3組の本尊が安置されている(以上の仏像はいずれも銅造)。なお、「中の間」「東の間」「西の間」は相互に壁などで明確に仕切られているわけではなく、柱の位置と、天井に吊るされた3つの箱形天蓋とによってゆるやかに区切られているにすぎない。3組の本尊のうち「中の間」の釈迦三尊像の光背裏面には推古31年(623年)造立、「東の間」の薬師如来像の光背裏面には推古15年(607年)造立の銘文がある。
――
参考文献
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館2020
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「正倉院の世界」東京国立博物館・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り
https://bit.ly/33VYRiy
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz
国宝 興福寺仏頭展・・・白鳳文化の香り
https://bit.ly/2T7N50o
――
特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館
2020年、公開日未定 〜 2020年5月10日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984

0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年03月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031