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2019年09月30日17:48

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封鎖

冷戦と呼ばれる政治的対立の初期、

戦闘なき戦争の第一ラウンドとも言うべき、西ベルリン封鎖が行われます。

1948年当時、ドイツの首都ベルリンは二分割され、

西側の西ベルリンは東ドイツの中の飛び地として、小島のように存在していました。

そんな中、分割占領された首都全体をどこが支配するのかを巡り、対立が発生。

ソ連はドイツとの戦争被害が大きかったため取れるものは全てとるという方針をとり、

早期復興を目指す西側3か国と対立。

この対立でソ連は西ベルリンへの交通制限を西側へ通達するに至ります。

ソ連軍政当局は西ベルリンへ向かう人員や貨物について検問を強行、西ベルリンへの物資搬入も制限。

その後、西側の通貨改革の影響で東側の通貨改革が失敗するに至り、反発。

1948年6月24日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。

西ドイツとの間の4本の鉄道は閉鎖、地下鉄も運休、運河経由の船舶輸送も停止、

4本のアウトバーンも閉鎖、国境の検問所にはバリケードが設置し、物流を完全に停止させます。

更に電力供給も停止、政治宣伝を行い、西ベルリン市民の取り込みを図ります。

ソ連側は、物資不足で西ベルリン市民が暴動やストライキを起こすと目論み、

社会主義革命の発生を期待していました。

それでもソ連側は、西ベルリンへの航空路は封鎖しません。

1946年2月の取り決めで、

ベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は西側諸国による自由な利用が認められていた上、

西ベルリン市民200万人の生活を支える物資を空輸だけで運べるとは到底考えられなかった事、

ソ連としても西側と全面的な対決に陥ることは避けたかったので、空路封鎖をしなかった様です。

完全封鎖で西ベルリンでは燃料や食糧、石鹸やなどの生活用品や、

薬品までが短期間で欠乏、市民生活が危機に。

アメリカやイギリスを中心とする西側は、物資の空輸作戦を実施。

アメリカの空輸作戦の名前は「糧食作戦」(Operation Vittles)と命名。

イギリスの空輸作戦は「プレインフェア作戦」(Operation Plainfare)。

一般には「ベルリン大空輸」 と。

6月30日にアメリカのマーシャル国務長官が

「我々はベルリンを放棄するつもりはない。市民への食料、物資の補給は

可能な限り実施されるだろう」と言明し、市民生活を断固として支える決意を示します。

西ベルリン市民が必要とする食料は1日、小麦および小麦粉646 t、穀類125 t、

肉・魚介類109 t、油脂類64 t、乾燥ポテト180 t、乾燥野菜144 t、砂糖85 t、

コーヒー11 t、粉乳24 t、イースト3 t、塩38 t、チーズ10 tの合計約1,439 tと。

燃料の石炭やその他の生活必需品などが1日あたり約3,000 t必要と、

空輸の最低量は1日4,500 tと設定。

1949年1月になると月間輸送量は171,690 tに達し、1日平均で5,540 tと。

4月16日には1日のフライト回数1,398回、空輸量12,940 tに達し、

作戦全期間中を通じて最大を記録。

やがて不可能と思われていた、西ベルリン市民の必要とする物資を

航空機のみで輸送するという試みは、成功したことが明白に。

東側の西ベルリン市民による社会主義革命の期待は、英米両国による

生活物資輸送における必死の努力でベルリン市民に英米との連帯感を高めさせ、

封鎖前に頻発していたストライキが影を潜めるように。

鎖解除後も空輸作戦は西ベルリン市民の生活の安定のためにしばらく続けられ、

公式には1949年の本日、9月30日に終了。

1948年6月26日からの総飛行回数は278,228回、空輸物資量は2,326,406 tに達します。


すごい数字です。

第二次大戦のスターリングラード戦でドイツ軍が包囲された10万人の兵士への補給、

1日700トン、最低300トンが満たせず、平均到着量110トンと言う数値から考えると、

日本もよくこんな相手の喧嘩を買ったものだと思います。

当時の輸送機はプロペラ機で速力や搭載能力も低く、稼働率も現代には遠く及びません。

単純に輸送された物資に、燃料、航空機のメンテナンスや

航空管制などのコストを考えてみてもとんでもない話です。

当時200万人を超えた人口を支えた訳ですからさもありなんです。

この時50日弱で滑走路を完成させたテーゲル空港は、

2020年10月に予定されるブランデンブルク国際空港の開港に伴い廃港される計画なのだそうです。

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