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2020年04月01日13:11

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伊豆三島・古代史フォーラムへ向けて

新型コロナウイルスの感染、いよいよ厳しさを増す状況になりましたね。さまざまに心配なことです。

さて、このような時期だからこそ、私たちの人生においても、ここは一つ〈充電期間〉と考えて、個人の学びに軸足を置いた静かな日々を過ごすことをご提案したいと思います。

ここからは、最近のぼくのライフワークとしての伊豆三島の古代史についてのつぶやきです。歴史について、ぼくはまったくの門外漢ですが、この数年は三島の古代について勝手ながら学びを続けています。

したがいまして、みなさんには、間違い、見当違いなど、ぼくのお目だるい文章をお読みいただきことになると思いますが、これを承知でお読みくださる方にはご自分の責任で最後までお付き合いくださいますようにお願い申し上げますm(__)m

さて、8世紀のわが国は奈良時代と呼ばれますが、この時期、全国で小さな国が15カ国も分離独立をします。これを小国分立といいます。

この小国分立の先駆けとなったのが伊豆国でして、それまでの駿河国から680年に独立します。この伊豆国の中心地であった国府が三島に置かれたというわけです。

どうしてこの時期に、中央政府から遠く離れた東国で伊豆が最初に独立を果たしたのか?また、なぜ三島が伊豆の中心地なのか?

この疑問が私たちの会の学びの原点です。この680年には三島に大興寺という巨大寺院が建立されています。2つの仏塔をもつ薬師寺式のお寺です。

また、この680年には奈良の薬師寺も建立されています。同時に、現在の静岡市葵区に駿河国の国府が置かれたのも同じ年です。
このあたり東アジアの視点から年号を遡って見てみましょう。

680年 伊豆国(三島)の独立
676年 新羅の朝鮮半島統一
676年 唐軍が吐蕃(チベット)制圧に向かう

672年 天武天皇即位
672年 壬申の乱
672年 天智天皇が崩御

668年 新羅によって高句麗の滅亡
667年 天智天皇、大津宮へ遷都

664年 防人の制
663年 白村江の戦いで倭軍大敗
660年 わが国の同盟国・百済の滅亡

635年ー658年 唐の強硬な対外政策により周辺の6カ国が滅亡する。

今回は、朝鮮半島と中国の関係について考えます。
この時期、7世紀の唐は、朝鮮半島への侵攻を8度も試みていますが、思うような結果を残せませんでした。古代、朝鮮半島の国々は、中国に対して簡単には攻めさせなかったのです。

今日に及んで、中国は朝鮮半島への進出を諦めていないようですが(^○^) 古代朝鮮の三国(高句麗、百済、新羅)に対する中国の攻勢にも激しいものがありました。

武力ばかりでなく、同時に、冊封(さっぷう)という政策による中国から朝鮮半島への文明文化の下賜が並行して行われました。冊封とは、中国の皇帝が周辺諸国の王に爵位を授けることで、これにより中国は近隣の諸国を統括することができました。

ここで特に注意することとして、中国から朝鮮半島への仏教伝来は、この冊封体制によって下賜されたという歴史があります。同盟国・百済から日本への仏教伝来の過程とはおおよそ違った歴史が朝鮮半島にはあったのです。

高句麗への仏教伝来 372年
百済への仏教伝来 384年
新羅への仏教伝来 565年

日本への仏教伝来 538年または552年

日本への仏教伝来は538年または552年ですから、驚いたことに新羅への仏教伝来は日本より遅かったことになります。

日本の仏教伝来は、朝鮮半島の事情と比較しますとなんとも呑気な状況で、百済から何事もなく伝えられました。なかよしの国の百済から友好的に仏教が伝来したのでした。

その百済は660年に滅亡します。同様に、高句麗は、唐と高句麗の両国から攻められて668年に滅亡します。

その後、676年に新羅による朝鮮半島の統一がなされましたが、この年は唐軍が吐蕃(チベット)の制圧に向けて政策を転換させた時期でもありました。新羅による朝鮮半島の統一は唐にとっての海外政策の一つの帰着点であったと考えられます。

唐軍の西域への方向転換、これによって672年壬申の乱から始まった天武天皇による国内宥和政策は見事に成功します。

古代都市・三島の成立はこの8年後の680年です。
古代三島の成立と壬申の乱との関係はきわめて密接です。

ここで私たちが考えることは、壬申の乱の前(天智天皇)と後(天武天皇)で日本の政治がどのように変化したのか?ということです。

天智天皇の政治は、強いリーダーシップによって律令国家の整備を進めますが、やや強権的な政治のあり方が問われるところです。

これに対して、天武天皇の政治は、自分の兄である天智天皇の政治を変える意図があったと考えられます。
・ 大津京から遷都して広大な藤原京の建設。
・ 水城や古代山城の建設を取り止めました。
・ 「古事記」「日本書紀」の編纂。
・ 国政に道教を取り入れて思想、文化の振興に力を注ぎました。
・ 伊勢神宮の建設など神道の基礎を築きます。
・ 仏教振興の詔を出して寺院を保護しました。

天武天皇の政治は、内政の充実に力点があり、とりわけ道教、神道、仏教の保護振興に見られるように人々の精神性の涵養を軸として律令国家の建設にあたりました。

この天武天皇の治世に国家プロジェクトとして建設された東国の拠点こそが古代都市・三島でありました。中央政府によって大量の物資、人員が動員されて建設された古代都市ですから、その背景となる都市インフラは三島に存在しませんでした。

これは、天武天皇が手がけた飛鳥の藤原京も、また奈良の平城京も同様で、その背景となる産業もなく、上下水道などのインフラも未整備のまま建設が進められました。

このことが中世以降において、三島のまちが衰退して行った時代に、人々の意識から古代都市・三島の記憶が急速に消えていった理由ではないかと考えられます。

長い文章をお読みいただきまして、ほんとうに有り難うございました。どんなことでも結構ですから、ご感想、ご意見、ご指摘などご教示いただくと有り難く思います。



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