占領軍の思惑に嵌り、自国の歴史と伝統・文化を軽んじ、旧軍や政治家の影の面ばかり強調し『日本軍は悪かった。住民を虐殺した恐ろしい軍隊だ。』とおっしゃるのは言論の自由の範疇では許されることだろうが、
『軍隊は国民を守らない。だから自衛隊は解散し、米軍は沖縄から出ていけ』
とプロパガンタ丸出しで子供を洗脳するのは恐ろしいことだ。
いまの日本の自衛隊は民主主義国家の軍事組織(軍隊と言ったら憲法違反という言葉遊びには呆れます)であり、災害派遣などで既に多くの国民から信頼を得ている。
それが反日サヨクの連中には気に食わないのだろうし、在日米軍などは中国共産党や朝鮮労働党にとっては目の上のたん瘤だから沖縄から追い出したいのだろう。
辺野古移設にしても、普天間基地という市街地の真ん中にある基地の返還のためでありキャンプシュワブの拡大に過ぎないのに、あたかも『新基地が建設され沖縄が軍事基地になる』と工事を妨害する連中は、心の中では普天間基地で事故が起きて沖縄県民が巻き込まれて死傷者が出るのを願っているとしか私には思えません。
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さて沖縄戦だが、サイパンやテニアン島などでの水際防御の失敗を戦訓として、戦う前に徹底した地下陣地の構築をして米軍を迎え撃った。
4月1日の米軍の沖縄上陸ではあえて無血上陸させ、過去に日本の柔道家がアメリカの拳闘家と異種格闘技戦を戦い、柔道家が寝技で拳闘家を下したように、圧倒的な火力を誇るアメリカ軍相手に正攻法では勝てない為、堅牢な洞窟陣地を構築してそこに籠城し、徹底した戦略持久を主眼とする大転換接近戦に持ち込む「寝技戦法」しか対抗手段はないと考え、第32軍に徹底した陣地構築を命じた。
日本軍は嘉数高台や前田高地(浦添グスク)などの防衛線で10倍以上もの敵に対して持ちこたえ、結果的に大きな損害を与えることに成功した。
しかし32軍司令部・・特に長勇参謀長などは陣地に頼る防衛線よりも大規模な反撃を主張し、無謀な大攻勢を仕掛けたが物量に勝るアメリカ軍の返り討ちに遭い、戦死者は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下の歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となるなど大損害を被った。
総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたとアメリカ軍は分析している。
この後日本軍は八原高級参謀の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、アメリカ軍の損害が増大していった。
首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の2ヵ月弱の戦闘で、第24軍団と第3水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ。M4中戦車だけで陸軍221両、海兵隊51両が撃破されたが、これは沖縄戦に投入されたアメリカ軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた
首里撤退
第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原は軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した。
首里陣地に籠り最後の決戦を行う案。軍の構想は平素からこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すればアメリカ軍の砲爆撃の好餌となってしまう。
知念半島撤退案。知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少ない。
喜屋武半島撤退案。海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。
八原の作戦案に対し、各兵団長が意見述べ、第62師団長藤岡武雄中将などは首里決戦案を主張したが、協議の結果、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続案を採ることとなり、軍主力の後退は29日、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うことと決した。
喜屋武半島での持久案をもっとも強く主張したのは八原で、作戦協議も八原主導で進められたが、この案は戦火を逃れて南部島尻地区に避難している住民の安全を殆ど顧みない作戦であった。しかし、あがってきた作戦案に対し、参謀長の長は総攻撃失敗以降は八原の作戦に異論を挟む事はなかったし、牛島も今までと同様に八原らの作戦案を5月22日に黙って決裁した。
コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたバックナー司令官は、日本軍の意図を察して徹底した追撃を厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず効果的な追撃ができなかったこと、5月末から降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、第32軍の30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった。
首里の司令部を放棄した日本軍は喜屋武半島に退却し、民間人は知念半島への疎開を勧めた。しかし既に首里からの道は米軍にほぼ制圧された。また県民の多くは軍に異常なまでの信頼を抱いており、軍とともに喜屋武半島に移ることを選んだ。そして、これが悲劇の始まりだった・・・歴史群像2000年夏号 沖縄1945 P49
なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した。
沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1,000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
首里放棄後の掃討戦である国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここはアメリカ軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
ダグラス・マッカーサーは「バックナーは、日本軍が撤退後に南部を攻撃する必要はなかった。牛島中将の残存部隊を沖縄の一部に閉じ込めておいても、沖縄は日本侵攻の基地として十分使用でき、バックナーのゴリ押し戦略よりも損害は少なくて済んだ」とバックナーを非難している
■「日本兵の方が恐ろしかった」=教育の重要性強調―語り部の89歳大城さん・沖縄
(時事通信社 - 06月23日 21:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6131395
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