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2018年09月07日11:23

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【歴史秘話ヒストリア】北海道で大地震が起きた当日に関西圏とはいえ放送するのはどうかと思ったがいい番組でした。

北海道札幌市に開店した「竹屋」という食堂。大久保は料理の腕はからきしダメ。そんな彼の元にある日、亡命中国人の料理人・王文彩がやってきた。彼は中国およびシベリアのニコラエフスクにて、北京料理の料理人として生活していたが、ロシア革命・尼港事件の戦火を避けて来日した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%96%87%E5%BD%A9
尼港事件で町は焼け、3000人近い人々が共産匪賊に殺されたそうだ。

日本語が全く分からない王・彼を支えたのが女将のたつでした。

彼が始めた『肉絲麺』(ロースーメン)それを食べたのは中国人留学生だったが、故郷を遠く離れた留学生にとって竹や食堂は故郷の味に出会える場所だった。

しかし客が次第に増えるにつれ、ガラの悪い客も増えて行った。彼らは注文する時、ロースーメンの名前をまともに呼ばず、中国人留学生の気分を悪くすることもあり、中国人客と日本人客は一触即発、留学生のせっかくの居場所が壊れていくことにたつは心を痛めていった。

そこで店主の妻(大久保たつ)が厨房の中国料理人の大声で出来たよという掛け声「好了(ハオラー)」と告げるアクセントを気に入って印象に残り、「ロースーメン」を「ラーメン」という名前にした。

そして日本人にも呼びやすいラーメンという名前が定着していったそうです・

竹や食堂が新聞に出した広告には『日本と中国との親善はます食べ物の理解からと信じます』とあった。

(中略)

関東大震災で家も職場も失った人々が、ラーメンの屋台を始めたそうです。
すべてを失った人々が手軽に出来る商売がラーメンの屋台であり、小説家の江戸川乱歩も一時期ラーメンの屋台を引いていたそうだ。

そして、関東大震災の復興とともにラーメンの屋台は地方に進出していき、そこで現地の人々の好みに合うように独自の進化をしていった。

チャルメラは中東・イランの楽器だそうです。
チャルメラの響と主にラーメンは日本各地に広がり、庶民のごちそうと呼ばれるようになりました。

しかし、太平洋戦争中は「ぜいたくは敵だ」との掛け声と、食料配給制度のために小麦・油が手に入らなくなり、戦時中はラーメンが無くなったそうです。

だが、敗戦後、復員してきた旧海軍軍人が闇市で見かけた小麦粉でラーメンを作りはじめたのがラーメン復活の第一歩。

・GHQ司令官マッカーサーがラーメン復活に一役買った。
戦争直後の慢性的な食糧不足・記録的な凶作。都市部では餓死する人もあいついだ。マッカーサーはアメリカ本土に日本にもっと食料を送るように要請した。

しかしアメリカ政府は「日本が食料を節約するため自ら努力することを求めた」

(日本の食料は)可能な限り最低限の消費量へ減少させよ。

「アメリカ政府は日本の食糧不足を義務だと考えていなかった・食料を送る事の重要性が全く分かっていなかった」

ラーメンの復活は遠のき、ますます危機に陥った日本。しかし状況は動きます。

「働けるだけ食わせろ」昭和21年5月、食料不足に悩む市民が不満の声をあげた。

当時のニュース映像では「こども、おかみさん、労働者などの市民は赤旗の歌を合唱し、人民大衆団結の力をまざまざと示しました」共産党や社会党の呼びかけで25万人が皇居前に集結。なかには「朕はたらふく食べている。汝人民飢えて死ね」というプラカードを掲げた共産党員も居た。(実際には天皇陛下も国民と同じく粗食に耐えていたのに。)

日本に社会主義運動の波が沸き起こる。アメリカは危機感を覚えます。その背景にあるのは勢力をますソビエトの存在である。

「アメリカは日本の共産化を強く恐れた」
「資本主義と共産主義が激突する中で日本の食糧問題こそが戦場になった」

アメリカは日本に対する行動を起こします。

「マッカーサー司令部の好意により食糧危機にあえぐ日本に1千トンの小麦が送られた」

大々的な宣伝と共に、大量の小麦粉が日本に届いた。こうしてラーメンの原料・小麦粉が戦後の日本に溢れました。焼け跡で飢えをしのぐ一杯のラーメンのぬくもり。庶民は闇市のラーメンを支えとしながら、戦後の復興を担ったのです。

『暖かいラーメンを食べるのは至福のひと時だったでしょう。闇市のラーメンは日本が力強く復興する道を歩むシンボルとなった』

そして戦後の混乱期も終わり、高度経済成長を遂げる日本。そのときもラーメンはサラリーマンや受験生のお腹を手軽に満たした。

ラーメンは常に激動の戦後史と共にあった。

昭和47年2月のあさま山荘事件。この時、凍える警察隊の腹を満たしたのはお湯を注ぐだけで食べられるカップラーメンが支えになった。

2011年、東日本大震災。避難所での生活を余儀なくさせた支えたのもラーメンでした。日本全国からラーメン関係者が集結。200万食以上の炊き出したラーメンが人々を温めました。

揺れ動く時代の中で、日本人に寄り添い続けたラーメン。困難な中でも、したたかに生きのびた庶民の味であるラーメン。


それをパクる中国は本当に恥知らずである。



やっぱりパクリ大国? 中国で日本の有名ラーメン店のパクリ登場で「恥さらし!」=中国メディア
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=97&from=diary&id=5277941
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