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2018年01月09日19:04

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西郷隆盛は島流しにあったが、その逆境が彼を強くしたのだろう。

しかし、明治維新150年で、薩摩・長州に光ばかり当たるが、薩摩・西郷が命じたとされる幕末江戸での御用強盗と、それを取り締まる庄内藩などが戦った、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件は「せごとん」では取り上げられるのだろうか?


大政奉還前に薩長の討幕挙兵計画があり、薩摩の益満休之助、相楽総三が西郷の命を受けてこれに呼応する浪士が江戸の薩摩藩邸に集められていました。 彼らは御用盗と名乗り江戸の町を荒らし、怒った庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ち、これが鳥羽伏見の戦いへの導火線となりました。

討幕の密勅の直後の慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。討幕のための挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝わったが、討幕挙兵の噂は瞬く間に広まっていて、薩摩藩邸ではその火のついた志士を抑えることはできずにいた。騒乱行為はますます拡大していき、慶応3年11月末(1867年12月末)には竹内啓(本名・小川節斎)を首魁とする十数名の集団が下野出流山満願寺の千手院に拠って檄文を発し、さらに150名をも越える一団となって行軍を開始[1]。同年12月11日(1868年1月5日)から数日間、栃木宿の幸来橋付近や岩船山で関東取締出役渋谷鷲郎(和四郎とも[2])率いる旧幕府方の諸藩兵と交戦し、鎮圧された[1][3]。敗れた竹内は中田宿で捕らえられ、処刑された[1][3]。しかし、参加者数名が脱走して薩摩藩邸に逃げ込んだ。同年11月25日には上田修理(本名・長尾真太郎)ら十数名の集団によって甲府城攻略が計画されるが、事前に八王子千人同心に露見し、撃退された。その際の襲撃者たちもやはり薩摩藩邸に逃げ込んだ。同年の12月15日(1868年1月9日)には鯉淵四郎(本名・坂田三四郎)を首魁とする三十数人の集団が相模の荻野山中藩の大久保教義の陣を襲撃し、薩摩藩邸へ戻ったが、こちらは死者1名、負傷者2名で比較的損害は小さかった。12月20日(1868年1月14日)の夜には鉄砲や槍などで武装した50名が御用盗のため同藩邸の裏門から外に出たところ、かねてより見張っていた新徴組に追撃され、賊徒は散り散りとなって薩摩藩邸へと逃れた。賊徒側も反撃に及び、12月22日の深夜、新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走、薩摩藩邸に逃げ込んだ。翌12月23日には春日神社前にある庄内藩の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、使用人1名が死亡した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸薩摩藩邸の焼討事件

薩摩藩邸焼き討ち事件・御用強盗実行犯幹部のその後。

薩摩藩士・伊牟田尚平は浪士を扇動し、御用強盗を命じた。その後上洛したが、部下の辻斬りなど様々な罪を着せられて、詰め腹を切らされる形で慶応4年(1868年)に切腹させられた。享年37。

益満休之助は焼き討ち事件ののち、幕府方により逮捕され処刑される直前に勝海舟によって身請け・幽閉された。
慶応4年(1868年)3月、新政府軍の江戸総攻撃に際し、勝海舟の命を受け、幕府の使者・山岡鉄舟を駿府総督府へ送る大役を務め、西郷隆盛との会見を成功させた。同年5月の上野戦争で、流れ弾にあたって横浜の野戦病院で最期を遂げたと伝わる。享年28。

相良総三は辛くも藩邸を脱出し、品川沖に停泊する薩摩藩の運搬船翔凰丸に乗って紀伊国に逃れた。 慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍するが新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は下諏訪宿で捕縛され同年3月、下諏訪で処刑。享年30。 


御用強盗事件の実行犯はほぼ死亡。まさに狡兎死して走狗煮らるの典型的末路です。

益満休之助は西郷隆盛と勝海舟との会見の下準備に貢献したかもしれないが、彼の力量で江戸城総攻撃が中止され、江戸の町が火の海にならずに済んだのではない。


この薩摩の闇に迫れなけらば「せごとん」は駄作。


【西郷どん】脚本・中園ミホ氏の裏テーマ「逆境が、人を強くする」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=4933351
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