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2018年01月09日14:26

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「せごどん」と九州旅行記・その2

私事になりますが、1月4日から8日まで家族と九州に旅行してきました。

軍艦島クルーズの途中までは他の日記で書いたので、これはその次の日からの備忘録。軍艦島については書くことが多いので、その3などで書くつもりです。


さて、三日目、続き、軍艦島クルーズの後、長崎市内のホテルに提携していた駐車場まで歩いて戻りレンタカーに乗って長崎出島バイパスなどを通って島原方面へ、当初は高速で佐賀方面から大回りする予定だったが、多比良港から長洲港まで有明フェリーに乗り熊本県上陸。レンタカーのカーナビが相変わらずおバカちゃんなので、途中で何度か変な道に行ったが、田原坂入り口に到着・・当時はこの道しか大砲が運べないので、官軍はこの道を通らねばならず、西郷隆盛の薩軍は熊本城には一部の戦力を張り付けて包囲し、田原坂で官軍を迎え撃った。

道路は当時の面影を残して細い一本道。一の坂・二の坂・三の坂と石碑が続くが、実に短い距離で高低差もないのに、薩摩は何日も官軍の攻撃を抑え、徴兵したばかりの農民主体の官軍は、乃木希典は軍旗を奪われるほどの大苦戦。

そこで新政府軍は、旧幕府軍・会津藩などの困窮武士を募って警視庁抜刀隊を組織し、屈強な薩摩隼人にぶつけた。戊辰戦争の恨みをここで晴らすとばかり、旧幕府や会津の武士は奮戦

ここで、会津藩の佐川官兵衛は「西郷さんに言ってやれ。勝てば官軍・負ければ賊軍・油断しやすな順めぐり」と言ったそうです。

その佐川官兵衛も熊本県阿蘇郡において被弾を原因として戦死した。享年47。墓は大分縣護國神社と福島県喜多方市の長福寺にある。


さて、現在の田原坂であるが、薩軍・官軍の戦死者約14000人の名簿が刻まれた大きな記念碑があり、記念館の傍には西南戦争で銃弾を浴びた土蔵が移築されていました。

中国や朝日新聞などが「南京大虐殺で30万人が殺された」と大嘘をプロパガンダしているが、明治10年に戦死した14000人の名前が記念碑に記されているのに、中国の南京記念碑には、いったいどれだけの死者の名前が記された記念碑がある?

いくら中国でも、昭和に入ってからの時代で戸籍はいい加減だろうがあっただろうし、民間人でもちゃんと名前はあったはずだ。

田原坂での両軍の戦死者は14000人ではなく、西南戦争全体での戦死者だが、ちゃんと記念碑に名前を残した日本の歴史は、捏造だらけの中国の歴史とは違うのである。


いろいろと長くなったので、九州旅行の続きはまた別の日記に書きます。

あと、せごどんの初回は熊本じゃなく、次に止まった湯布院で初回を見ました。


鈴木亮平「西郷どん」15・4%、ワースト2位発進
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=4935307
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