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2017年04月07日22:47

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ここを作った業者はナヴォイ劇場を作った旧日本軍将兵に土下座しろ!

戦争が終わってから捕虜を返さず強制労働させた旧ソ連も糞だけど、この業者は何やってんだよ。

まあ、責任を感じて補修費用は施工業者が負担したようだけど、情けない話だね。


■名古屋の劇場、完成すぐ雨漏り 新しい壁に目立つ補修跡
(朝日新聞デジタル - 04月07日 08:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4516048

ビザンチン風建築のオペラハウス

中央アジアの中心地であるウズベキスタンの首都タシケント市にある総床面積1万5000平方メートル、客席1400席を有する煉瓦作り3階建てのビザンチン風建築のオペラハウス。正式名称は「アリシェル・ナボイ劇場」。 建物内部にはいくつかの間やパーティの部屋があり、壁装飾は中央アジアの各地域の特色を生かすよう工夫されている。

特殊任務に就いた日本兵たち
オペラハウスの建設開始後、ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月7日の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。ソ連の捕虜になったのは合計60万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。

劇場完成とウズベク人との交流
一級の劇場”ボリショイ”劇場としてモスクワ、レニングラード、キエフに続く劇場として、1947年10月に完成した。設計者はモスクワ・赤の広場「レーニン廟」を設計したシュシェフ氏。劇場建設での日本人の働きぶりを見ているうちにソ連の収容所長やウズベク人たちは次第に日本人捕虜に敬意を表し、心温まる友人関係や地元女性との恋なども生まれている。

タシケント大地震でも建ち続けた劇場〜親日の由来〜
タシケント市は1966年4月26日午前5時23分に直下型大地震に襲われたが、ナボイ劇場は何事もなかったように何ひとつ壊れることなく凛として悠然と建ち続け避難所としても活用された。震源地はタシケント市中央部地下、マグニチュード5.2に達した。国連の調査によると、60年代までの世界の大地震の5本指に入るほどの大きさで、約240の政府系建物、700の商店・レストラン、約180の教育施設、250の工場、約8万の家が崩壊し、約10万人の人々が戸外に放り出され、街はほぼ全壊した。大地震に倒れなかったナボイ劇場の話は、瞬く間にウズベキスタン国内や隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどの中央アジア各国に伝わり、1991年に中央アジア各国がソ連から独立した際に再び思い起こされ、日本をモデルとした国づくりをしようという動きつながった。

ナボイ劇場プレート日本兵たちを称えるプレート
劇場裏手の記念プレートには以前ウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と書かれていた。これをみた独立後大統領に就任したカリモフ大統領は「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」と使うのはふさわしくないと1996年に新たなプレートに作り変えられた。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれ、これを見た日本人の多くはこの史実を知り涙している。

波乱万丈の感動秘話
本書はよく知られたシベリア抑留とは異なる波乱万丈の建設の物語で、捕虜たちは完成した時にロシア人にもウズベク人にも感謝されたという奇特な胸暖まる話である。

http://navoi.nobuhiko-shima.com/navoiopera.html

日本人抑留者記念館

ジャリル・スルタノフ氏私財を投じ日本人の仕事ぶりを後世に伝える

ジャリル・スルタノフ氏(70)は、ナボイ劇場の建設秘話やそれ以外にも水力発電所や工場、学校建設の話なども聞くに及んで勤勉な日本人抑留者の話などを資料として残すため1991年にウズベキスタンが独立したのを機に、日本人ゆかりの収容所や墓地などの資料や証言を収集。それらを1998年、タシケントの日本人墓地(ヤッカサライ墓地)近くにあるご子息宅の敷地に、私財を投じて「日本人抑留者記念館」を開館し、運営を続けてきた。

ウズベク人との交流
館内には、抑留当時の写真や資料のみならず、抑留者が現地の人に贈った手作りのゆりかごや肖像画など、抑留された日本人と当時のウズベク市民の交流を物語る貴重な品々が展示されている。

抑留者の生活を伝える
また、展示と並行して、抑留者の生活を描いたドキュメンタリー映像「ヒイラギ」を自ら制作し上映するなどの活動を行なっている。

スルタノフ氏を日本に招聘
それらの歴史を知ったウズベク日本大使館の加藤文彦大使らがスルタノフ氏に感謝状を送り、現地日本人関係者や嶌が会長を務める日本ウズベキスタン協会が相談してスルタノフ氏を日本に招待しようという話が持ち上がった。それを聞いて日本ウズベキスタン協会が安倍夫妻や官邸関係者に働きかけたところ、2015年10月末の中央アジア5ヵ国訪問の際、安倍首相の口からスルタノフ氏に招待の話がもちかけられたという。
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