今朝は五時半起きしてテレビを点けるとこちらの歌声が響いてきた。
あのウィーン少年合唱団による「花は咲く」であった。優美な歌声に一瞬浸れた。
もうすぐ東日本大震災からまる10年を迎えるとあり節目ととらえられているふしがあるが、ある震災被害者の地元の方が言っていた。10年だからと言って節目などということはない。自分はあの日からずっとまだ「続いている」と。重いひと言であった。
世はコロナ禍でありながら被災地の復興は今なお停滞どころか衰退しているところもあるようで気がかりだ。あらゆる意味で活力あったあの日の日本に戻れることを祈りつつやはり10年の経過を迎えたい。
今日の3月7日で僕は満55歳の誕生日を迎えた。これにより年齢を四捨五入することで僕はもう還暦予備軍となりもうすぐじじいということになる。
若い頃実は僕自分が長生きできず早死にすると思っていた。根拠がふたつありひとつはこちらだ。
僕が小学生の時に流行っていた「ノストラダムスの大予言」だ。日本中でこれの話題でしばらくもちきりになっていたものだった。
当時バカなはなたれ小僧の僕はこいつを信じており、天変地異により1999年に人類は滅亡するという予言の的中により自分は33歳で死んでしまうであろうと思い込んでいたものだった。そしてもうひとつがこちら。
手相だ。やはり僕が小学生時には手相も流行っており、ハウツー本片手に自身の手相を始める人が多かった。その影響で僕も自分の手のひらを診てみたところ、どうも他の人より生命線が短いのに気がついた。そしてノストラダムスとも重なりああ自分はやはり33歳くらいで死んでしまうのだなあと思い込んでいた暗い小学生が一丁出来上がってしまったのであった。
それならばその短い生涯を太く生きるべく必死に駆け抜けようとしたかというとそういうことはまるでなかった。小学生の時は放課後の野球ばかりを楽しみにしていたし、中学生の時は二年生になって覚えたオ〇〇ーに耽溺していたし、高校生になってからはまるで勉強せずに部活にだけ注力していた典型的なダメ学生だった。
大学に進学しても学問志すこともなく飲酒麻雀アルバイトのダメ人間であったし、社会に出て会社員になり営業マンになったとて嫌いな客には愛想を振りまくことができずいつも営業成績じり貧の役立たずだった。
望みもしないでしてしまった最初の結婚に失敗して後なお生活は荒れて飲みすぎで倒れてしまい、瞬時命の危険にさらされたのだった。あの時が35歳だったので予言はともかく自身の短命は当たりかと頭によぎったものだった。
その後は偶然にもいまの家内と知り合って命脈を保つことができたのであり今日の55歳まで生き永らえることができた。家内との出会いのラッキーがすべてであった。
それにしてもこの年齢で9歳半と6歳の娘の父であろうとは過日ゆめにも思わなかった。その6歳の次女ともみから昨夕お花を贈呈された。
昨日の午後は僕と家内ともみのコンビは別行動であり僕はめぐみのお見舞いふたりは園のお友だちのお家に遊びに行って後お買い物だった。お買い物の中に僕へのお花のプレゼントがありありがたいことである。
真っ赤なのがバラで黄色いお花をラナンキュラス、水色の細かいお花をサクラコマチと言うそうである。日比谷花壇で奮発してくれただけでなく、なんとお花のセレクトをともみが人生で初めてしてくれたとありこれは忘れられないであろう。帰宅したともみをきつく抱きしめたところ、ナニスンダこのオヤジ!と言われてしまった。うれしかった。
54歳最後の夕飯はともみのリクエストによりまたもカツ丼にした。
夕食後にともみの指導のもと、家内とふたりでペーパークラフトのおひな様を作った。
まるでお花のようでありかわいい。そしてもひとつ花一輪。
昨日家内とともみが遊びに行ったお宅のお嬢さんのひめちゃんが近所の公園に咲くお花を摘んでいてくれたとあった。椿にみえるがおそらくさざんかであろう。
そんなわけであれこれお花が僕のゆく齢を祝ってくれた昨日の夜であった。このクラフトに時間がかかり昨夜の就寝はあわや午前様になりそうであった。
そのくせなかなか寝付けずにいたら夜の薬の服用を忘れていたのに気づいた。睡眠導入剤を服まなかったせいで寝付きが悪かったか。飲んで寝たらいつのまにか眠った。
そして今朝である。朝食の果物を剝いて洗濯機を廻した。コンロが汚れていたので台布巾をおろしてコンロをピカピカに磨いて新しい布巾に新調した。
浴室掃除用のスポンジも新しいものをおろした。固めのスポンジでする浴槽清掃はやはり気持ちよかった。自身の加齢にあわせての小さな新調ふたつが妙に嬉しかった。
55歳になったからといって何も変わらない。日々家族と暮らしていくだけである。いちおう自分にプレゼントの一曲。
今日の横浜は朝から曇りながら、午後から晴れるそうです。
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