昨日は終日うつうつとしてしまい、原因は一昨日の日記に書いたA社Oさんに対する怒りに任せた暴言だ。やはりいくらなんでもあれはやりすぎだったと自身のしでかした仕儀を大いに反省するとともに自己嫌悪に陥った。家内からもちょっとやりすぎたねと言われてしまいへこんだ。
なので昨朝家内に頼んで責任者のWさんに伝言で非礼を詫びてもらうようお願いした。自分から言う勇気もなくヘタレな自分であった。なので昨日は日中から酒に逃げて痛飲した。
したたか飲まないとどうにもならなかったので酔いに任せた。そしたら大事なことに酔ってようよう思い出した。Oさんに詫びてないではないか!
慌てて携帯からOさんの携帯宛てに電話して彼女に非礼を詫び謝罪した。先方も謝ってきたのでこれからもよろしくお願いしますと述べて収めた。ほんと、いいかげんこの瞬間湯沸かし器みたいな短絡短気な性格をどうにかしたいよなあ(´;ω;`)ウゥゥ。昼過ぎには爆睡に入り酒臭さを落として次女の保育園お迎えを果たしたのちともみと公園で戯れた。どうにか持ち直すことができてやれやれだった。酒に逃げ込んでも時としていい場合もあるのだ。もうあんまりしないけど。かあちゃん、すまんの(-_-;)。
というわけで昨日は日記をさぼってしまったのであるが、実はぜひとも書きたいことがあった。数日前の愛読A日新聞の読者の声欄にたいへんすばらしい投稿がなされていたのだ。短いのでこれを全文掲載したい。
「しょうがい」の正体、知ってね 医師・松永正訓 千葉県 58歳
「しょうがい者」という言葉は、呼ばれた人が嫌だろうから言い換えよう、と提案した心優しい9歳の君(1月29日)。大人の私から返事をさせて下さい。
まず、「しょうがい」って何だろう?
私は仕事で、たくさんの障害児をみてきました。この子たちは、他人より劣った部分があるからそう呼ばれているのでしょうか?
いえ、違います。この子たちと社会との間に壁、つまり障害があるから、障害児と呼ばれているんだ。
つまり、障害は人ではなく社会に対する言葉です。
車いすが越えられない段差とか、点字ブロックの上に置かれた物が障害なんだ。
そしてその壁は私たちの心の中にもあります。そんな壁をすべて取り除いたとき、「しょうがい者」ということばは要らなくなり、ぜんぜん違う言葉になるかもしれません。
そういう社会になってほしいですね。
(了)
実にわかりやすい、そして心やさしくも心に響くこの名文かつ9歳の君に対するみごとな答案用紙に目からうろこの思いをしつつ感銘を受けた。
ダウン症児で自閉症という障害児の長女めぐみをもつ僕であってもなお、彼女が障害を得ているから障害児なのだとばかり勘違いをしていた。
松永先生の言葉でようやくそれを知ることができた。
この記事を切り取ってすぐに家内にも読ませた。家内も胸を詰まらせていた。
そしてこのことばはきっとおそらく9歳の彼にも届いたことだと思う。
障害者。彼らをそう呼ぶこと自体を恥じなければいけないのかもね。そしてそういう社会に身を置く僕らもよくよく自覚しなければならない。彼らを含めた隣人に優しくあるべきだ、と。
ここ数日あの障害者施設やまゆり園での大量殺害事件の公判での被害者遺族の加害者への質問のやりとりを毎日紙面で読んでいて心を痛めている。
あの植松被告には上記の松永先生の言葉などおそらく理解できまい。そしてそれはなにも哀れな植松被告だけに限らず存外気づかぬ人が多い世の中ではないかと思う。
不寛容差別区別に排除。こういった仕儀はみな僕らが作ってしまった「壁」なのだ。
高校生の時に読んだ安部公房先生の問題作「壁」を思い出す。安部先生はもう半世紀以上も前にこの時代を予見していたのかもしれないなと思った。
壁をどけようね。ひとりじゃ無理だからみんなで。それこそが「社会」と呼ばれるものではないかと思います。
先ほど観終えた邦画がこちら。
「翔んで埼玉」だ。昨年大変話題になった本作が早くもテレビに登場したのに驚いた。
で、感想であるがどわははははははははははははははははは♡。あ〜おかしい。
あの「パタリロ」でおなじみの魔夜峰央先生がもう30年以上も前に書き上げた短編が原作とあり、魔夜先生の慧眼というか英知というかユーモアに驚嘆させられた。
主役のGACKTくんと二階堂ふみちゃんのふたりの熱演にこちらも熱があがりました。というわけで明日の日記は埼玉県と千葉県とわが町神奈川県横浜市西部地区について書こうと思います。全国3200万人の僕の日記ファンのみなさん、乞うご期待!あ、なんか俺うつうつ治ってきたぞ(*´ω`*)。
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