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2020年04月05日22:32

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織田信秀の経済重視の力量拡大と信長に相似点を見ていた

【麒麟がくる】高橋克典、一足先に“上がり”「ここからが新しい時代の幕開け」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=6035758
織田信秀は守護の代理の代理の傍流に仕える3奉行の一人だったが。父・信定(信長の祖父)の頃から弾正忠家が支配下に置いた物流の拠点・津島湊の経済力で、那古屋城や古渡城、末森城を築いて拠点を変えながら、下4郡を中心に勢力を伸ばし、主筋の大和守家をしのぐ勢力となっていく。

公家の大納言飛鳥井雅綱を尾張に招き、蹴鞠を伝授して貰ったりで京都に顔を売った信秀は、守護の斯波家よりも高い官位を得て足利13代将軍義輝にも拝謁している。

織田信秀は経済力を背景に領国拡大を図り、道三の美濃や松平家の西三河を攻め一時は西三河を勢力下に収めた結果、駿河の今川氏と直接向き合うことになり、美濃と駿河、双方に敵を抱える事になった。

三河侵攻のきっかけは、天文4年(1535)に松平清康(徳川家康の祖父)が家臣に斬られて不慮の死を遂げた事件、森山崩れで、信秀は混乱に乗じて三河に攻め込み、安祥城まで勢力圏に収めるが、この結果、東側から三河に侵攻してきた今川義元と対決する事になる。

第1次小豆坂の戦いは痛み分けだったとみられるが、織田と今川に攻められた松平家の当主、広忠はこの戦いの後に今川方につき、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を駿府に送ろうとした。ところが護送を担当していた家臣を裏切らせ、竹千代を織田家の人質にする。

信秀は広忠に織田方につくよう説得したが実らず、広忠の岡崎城の攻略に乗り出す。義元は松平氏救援のため太原雪斎を大将とする援軍を派遣し、両軍が衝突したのが第2次小豆坂の戦いになる。

戦いは今川軍が勝利し、織田方は安祥城まで敗走したが、勝利を収めた広忠が急死し、松平家は次期当主の竹千代を織田の人質からとり返すため今川義元に助けを求め、天文18年(1549)に今川・松平連合軍は安祥城を攻略し、城主の織田信広を捕虜として、竹千代と交換することに成功し、信秀は帰蝶と信長の縁組で道三と同盟して北の脅威をなくし、三河でも巻き返しを図るが重い病に侵されて死去したのが今日の最後の場面になる。

信長がうつけ者と呼ばれていたのは、下級武士の子などを集めて野原や河原で軍事訓練をしていたのが、他人から見ると荒くれ物の集団に見えて評判が悪かったから、という説がある。

織田信秀は見た目や評判ではなく、信長の本質を評価していたようで、信秀は、街の有力者と親族を結婚させたり、お祭りを奨励したりと街の活性化に力を入れドラマの様に信長と自分が似ている事を知っていたのだろう
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