mixiユーザー(id:14855706)

2016年03月30日01:20

411 view

真田幸村 上杉家人質時代の現実

1585年真田幸村は16歳あるいは19歳の時に上杉家に人質に出されることになる。頻繁に主家を替える真田家が臣従したいと言ってきても、上杉氏も「はい、どうぞ」というわけには行かなかった。

真田昌幸は二男幸村を人質として差し出すことにした。上杉氏の立場からすれば、真田を味方にすることで信濃への進出及び対北条・対徳川の先鋒としての働きが期待が出来る。また国は持たないものの広範囲を支配する昌幸の力量も捨てがたいものがある。上杉氏は真田家に大きな価値を見出したことが大きい。

真田幸村を引見した上杉景勝は、屋代秀正の遺領のうち千貫文を幸村に与え、人質というよりは上杉武将という破格の扱いで厚遇した。一目で真田幸村の器量を見抜いたらしい。九月に上杉景勝は新発田治長攻めの軍を起こした。真田幸村の軍代・矢沢三十郎は上田勢100余騎を率いて参陣し軍功を立てている。

越後での真田幸村の扱いは特別に客将で、行動に制限があったわけでも無く、学問や武芸の稽古も自由に行い、城下に繰り出す事もあった

真田幸村は幼い頃から父・真田昌幸の謀略を見て育ってきたが上杉家筆頭家臣・直江兼続と出会うことで、どこか人間不信な面があった幸村が直江兼続は清廉潔白で知られ、自分の志を曲げない人物で戦略も正攻法が多いだけに直江兼続に心酔するように、惹かれていき後の最後まで豊臣家を守ろうとした義将、真田幸村を形成したのは上杉謙信に始まる上杉家の家風が大きかったからかもしれない

真武内伝附録や寛政重修諸家譜に記されている事実と私の想像を組み合わせて書いてみました
8 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年03月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031