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2014年12月31日02:44

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大阪冬の陣・講和の現実と豊臣家滅亡の真の理由

冬の陣は、幕府軍も豊臣軍も、講和を念頭においた戦いで実は始まったものだった。12月16日、幕府軍の大砲が、淀の方の侍女を吹っ飛ばすという事件が起き、それを見て震えあがった淀の方が、この脅しに負け、講和が成立してしまった

和睦の条件は、外堀のみを埋めるはずだったのに、騙して内堀まで埋めたと言われるが実際は違う。外堀は徳川方で、内堀は豊臣方で埋めるのが条件でお手伝いと称して内堀まで、徳川方で突貫工事で埋めたのが現実だった。要は真田幸村、後藤又兵衛、長曽我部元親などの優秀な武将を得てもトップに器量がなければ、どうにもならない現実があった。

和睦条件は、大坂城の惣構(堀や塀、柵)の廃棄。大野治長と織田有楽斎の子供を人質として江戸へ上京させる。豊臣家の本領安堵。大坂方新規召し抱えの者(浪人衆)にはお咎め無しという緩やかなもので本来は惣堀の棄却のみと言うのが家康の条件だったが、和睦条件のあまりの緩さに不穏に思った豊臣方が内堀の埋め立てを和睦条件に入れてしまったのが真相ではある。

康は本気で豊臣家を潰すつもりは無く和睦条件も非常に緩く豊臣方が家を残すつもりならいくらでも残せる条件になっていた。

豊臣方から出た条件は秀頼の国替え、淀君が人質として江戸へ下向すると言ったもので豊臣方も家を残す為に大坂城をすてるつもりがあったのが現実ではあった。これではいくら精鋭の浪人が集まっても無意味だったのが現実ではある。

豊臣恩顧の大名がだれも馳せ参じなかった理由もここにあり、現実を冷静に考えて大坂城を退出し、先の関白の息子として京都御所の付近に庵をたて、和歌や蹴鞠をし、公家として生きて豊臣右大臣家という位を全うすれば公家として残れたのが現実だった。

ただ信長の姪で、しかも秀吉の側室という淀の方の、臣下の徳川ごときというプライドが家康また豊臣恩顧の大名の想定を超えていた。それが豊臣家滅亡の原因となる。


夏の陣で真田軍に本陣を襲われた家康は、何度も切腹を考えたといわれるが、今更家康が死んでも、 徳川は秀忠が2代将軍になっているので徳川の天下は揺るがず、豊臣復権は夢のまた夢という現実が分からなかったか、分かっていても信じたくなかった淀の方という特異な性質をもっ屋ひとりの女性の気性が豊臣家を滅亡に追い込んだのが実は現実だった
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