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2014年12月30日03:08

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実は豊臣軍優勢だった大阪・冬の陣

1614年秋、徳川家との戦が避けられないと見た豊臣家上層部は秀頼の名前で、豊臣家に縁の深い大名など南から島津家久・細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・浅野長晟・池田利隆・前田利常・蒲生忠郷・伊達政宗・佐竹義宣といずれも有力大名に味方になるように使者を送る。送った相手の構成から味方につけば戦況はかなり有利と考えたが誰もが豊臣家に味方につこうとせず、それどころか豊臣家の使者を切り捨てたり捕らえたりして徳川家に忠誠を証を見せてしまう。

だが関ヶ原の戦いで大量に出た浪人達が、この戦いこそチャンスと考え大坂城へ入城するものが多数出た。代表的なのは、元土佐22万石の国主・長宗我部盛親、黒田家の家臣であった後藤基次、元信濃上田城主真田昌幸の次男・真田幸村、元豊前小倉城主勝信の息子・毛利勝永、宇喜多家の家臣だった明石全登。他にも仙石秀久の子・仙石秀範、大谷吉継の子・大谷吉治、加藤嘉明の家臣であった塙直之というかなりのメンバーが終結した。

1614年10月23日、11日に駿府を出発した徳川家康が京に着いた。同時に江戸の秀忠も10万の大軍と共に大坂へ向けて進軍を開始。この時、秀忠は関ヶ原に遅参した過去を思い出し猛スピードで大坂を目指し、10万もの大軍がわずか17日で近畿へ到着する。

豊臣軍は10月12日に堺を占領し真田幸村・後藤基次は大坂城を出撃し、行軍で疲れている徳川軍を迎え撃つという策を提案し、他の浪人大将達もこれに賛同したが、豊臣家上層部は堅城・大坂城に籠ればまず勝ちは間違いないだろうと拒否し、1614年11月中旬、徳川軍は、上坂してきた各大名達を含めた約20万の兵で大坂城の廻りを固める。大坂城内からは誰一人出られない完璧な布陣を敷く。

1614年11月19日、徳川軍は手始めに大坂城への補給路である木津川口に築いてあった砦を攻撃し、26日には大坂城の北東の守りの強化の為に築かれた鴫野と今福の砦も攻め、木津川口の戦い、鴫野の戦い、今福の戦いの三つとも徳川軍の勝利に終わり、豊臣軍は砦を奪われ29日は木津川河口の博労淵の砦を巡る戦いと野田・福島村近くの川で水軍同士の攻防もあったが、両方ともに徳川軍の勝利に終わる。

豊臣軍の戦力は完全に大坂城内だけになり、堅城・大坂城を普通に攻撃しても勝てる見こみはないと家康は考え日本では珍しかった大砲を用意し昼夜を問わず打ちつづけた。

だが大坂城の弱点である南側に真田丸と呼ばれる出城を真田幸村が弱点を補うために築き連日の真田隊の挑発にのってしまったため1614年12月4日、徳川方の前田軍以下数万の軍隊がそこへ一斉に攻撃をしかけたが徳川軍は甚大な被害を出し、豊臣軍は大きな戦いで初めて勝利した。

両軍とも容易に手を出せなくなり戦線が膠着し、士気が下がってきたので、雰囲気をなんとか変えようと1614年12月17日、豪傑で知られた猛将、塙直之が夜討ちを提案し見事に成功し、本町橋の夜襲戦で徳川軍は数十人の死者を出した。膠着状態の中、厳冬の接近と兵糧不足が懸念される徳川方は、止む無く和睦を提案することを決定するにいたった。実は徳川軍の圧勝の様に思える大阪・冬、夏の陣で、冬の陣では方法によっては豊臣軍逆襲の可能性もあったのだが…残念な結果を明日に
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