mixiユーザー(id:14855706)

2014年12月29日01:06

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大阪冬の陣の開戦理由

1600年の関ヶ原の戦いは、石田三成VS徳川家康の争いであり、徳川軍にも豊臣家に恩のある大名が多く存在していた。つまり豊臣家内部の抗争に過ぎないという一面があった。豊臣VS徳川という形式には家康もできなかった。そうなれば後ろから上杉のみでなく、天下を狙う伊達や、そのライバル、最上等に空いた関東を獲られてしまう可能性も高かった

慶長8年(1603)に、家康は征夷大将軍として任命され江戸に幕府を開きますが、それでも豊臣秀吉の子、秀頼は家康に擦り寄らないため徳川家康は、将軍の座をわずか2年で退き、子の秀忠にその椅子を譲る。今後政権は徳川家によって世襲されていくと言う無言のメッセージで幕府の実権は家康に握ったままで江戸には秀忠、家康は駿河に移り住み軍事、外交、文化、経済などは実質、家康が判断を下していた。

慶長11年(1611)、70歳となった家康は、豊臣秀頼との面会を求めた。秀頼が拒否したら豊臣家を潰すつもりだったが加藤清正らはそれを理解し上洛を拒む秀頼の母、淀の方を説得し二条城にて家康と秀頼との面会を実現させた。

家康には幸いなことに加藤清正、浅野長政、池田輝政らの豊臣家の重臣たちが相次いで他界していく(私は暗殺を疑っているが)

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件で豊臣家が再建を進めていた方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と銘が刻まれていたことに家康が国家安康は家康の字を切り離し、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を願う下心が見えると難癖をつけ、豊臣家を挑発する。70歳の年齢からくる焦りだったのだろう。

豊臣家も弁明したが聞き入れられない無理難題をつきつけ話をこじらせ、家康の嫌がらせに、秀頼母子は、堪忍袋の緒が切れ人たちを大阪城に集め軍備を整えたのをきっかけに豊臣方が挙兵と家康は大名に出動命令をだし、大阪冬の陣が開戦する
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