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2018年01月17日22:38

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井家上隆幸さんのこと

 井家上隆幸さんについては、他にいっぱい書く人がいるだろうが、二回りほど年下の編集者の友人が、井家上さんが編集者であったことを知らなかったというし、訃報でも、書評家、文芸評論家としか紹介していないようなので、ここに、なにがしか書いておくことも、無駄ではないような気がする。
 井家上さんが三一書房にいたことは、さすがに、報じられているし、その当時の仕事の代表として、ウィキペディアには小沢昭一の『私は河原乞食・考』と清水一行の『兜町』(正確には『小説兜町』であろう)があがっている。その後、創刊準備の日刊ゲンダイに編集局次長として入った。従業員を個人契約(更改がある)の年俸制にしたのは、井家上さんのアイデアだと聞いたことがあるが、ご本人に確かめたことはない。その後、日刊ゲンダイを辞めて、白川書院で本を作る。当時の仕事で一番有名なのは、竹中労の『日本映画縦断』全3巻と、別巻に相当する『鞍馬天狗のおじさんは―ー聞書アラカン一代』だろう。高平哲郎の『みんな不良少年だった』も、井家上さんが作った本だ。このころの竹中労は、喧嘩に次ぐ喧嘩で、敵が多く、人が近寄りがたかったが、それを御すことの出来た唯一の商業出版可能な編集者であった。
 私が名刺を交換したのは、83年の初頭、噂の眞相の編集部においてで、まもなく連載開始する「井家上隆幸のジャーナル読書日記」を担当するよう、おおせつかった。井家上さんが無類の話上手なことは、すぐに分かり、原稿を受け取るときに、時間の余裕があれば、いろんな話が聞けた。とくに印象に残っているのは、岡山大学時代の共産党の細胞だったころの話で、「俺くらい除名と復帰をくり返したのも珍しいはずだよ」と言っていた。中央の命令を無視しては除名され、地方ゆえ人がいないので、すぐに除名を解かれて活動を命じられるというのである。
 井家上さんは若い人を応援するのが好きだった。当時30歳すぎで、世に名前が出始めた人たちというのは、全共闘世代に相当し、そうした人たちに、無名時代からコンタクトを取り、仕事ぶりを見つめていた。もちろん、井家上さんの顔の広さは、この世代に対してだけのことではない。また、それ以後に出てくる若い人々への関心も変わることはなかった。そういう井家上さんの意識があってこそ、ジャーナリスト専門学校の講師としての仕事を長く続けえたのだろう。
 もっとも、口外するしないは別に、井家上さんの目は厳しく、ジャナ専の生徒にも、それはあてはまった。編集者とライターの違いは分かるかと、講義初日に問い、まあ、たいていは分からない。違いを説明したあと、言い放つ。編集者になりたいなら、いますぐここをやめて受験勉強をして大学を受けろ、なぜなら出版社は大卒しか採らない。ライターになりたいなら、名刺をつくれ、それでライターになれる。コトの本質をついてはいるが、18かそこらの学生は、呆然としただろう。競馬ライターになりたいという生徒がいたらしい。井家上さんのアドヴァイスは、毎日、朝一番でトレセンに行け、だった。とにかく毎日行け、そうすると、何だ?あいつは、ということになるから、と。そして、井家上さんは水割りを口にして首を振る。「実行する奴はひとりもいない」。
 書評家時代の井家上さんを「褒め屋」と揶揄した人がいたらしい(これは井家上さんご本人から聞いた)。確かに、井家上さんは本を褒めたし、オススメ屋を自認していた。顔の広い人だから、作家や編集者に知り合いも多い。知り合いだから甘くなると、短絡したのかもしれない。井家上さんの苦言は、紙の上では控えめだから、注意していないと気づかない。本人が耳を傾けたときにのみ届くような、それは苦言であった。それが、酒席では直截になった。その落差が誤解を生んだのかもしれない。
 井家上さんは子どものころの事故で、片目を失っていた。このことに関して、書き残しておきたい話がある。私はその場に居合わせず、伝聞なのだが、記録しておきたい。
 ゴールデン街のカウンターだけの店で、井家上さんが例によって、話上手ぶりを全開にしていた。なんの話題かは知らないが、井家上さんがさかんに「めっかち」という言葉を連発したらしい。居合わせた若い編集者(岩波と聞いたが、本当だろうか)が、たまりかねて、「そんな言葉を使うのはやめるべきだ」とかナントカ意見しらたらしい。井家上さん、たちまち怒って、「めっかちをめっかちと言って、どこが悪い!」と、自分の義眼を眼窩から取り出して、バンとカウンターに打ち付けた。店じゅうがシーンとなったということである。
 
 
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