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2020年01月21日17:39

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戦艦大和の元乗組員「八杉康夫さん」死去

戦艦大和の元乗組員「八杉康夫さん」死去 目前で上官が割腹自殺、名作のウソを指摘…語り部としての功績
(2020年1月21日 6時1分 デイリー新潮)
https://news.livedoor.com/article/detail/17693593/
『 第二次世界大戦で奇跡の生還を遂げ「戦艦大和の語り部」として講演活動などをしてきた八杉康夫氏が1月11日広島県福山市内で死去した。92歳。誤嚥性肺炎だった。

 著書『戦艦大和最後の乗組員の遺言』(2005年 ワック)は筆者の手になる聞き書きである。その生涯と言葉を振り返りたい。

 八杉氏は福山市の豆腐店に生まれた。1943年、「街を颯爽と歩く水兵さんにあこがれて」15歳で海軍に志願。秀才の集まる横須賀砲術学校を2番で卒業。17歳で憧れの大和乗務員に抜擢された。


 担当は艦橋最上部での敵機の偵察。「司令官ら偉い人たちの居る場で狭い階段で最敬礼の連続でした」。

 敗色濃厚となった1945年4月7日、「天一号作戦」と呼ばれる沖縄海上特攻に呉港から出撃する。「温存されていた大和を使わないまま敗戦になれば国民の批判を受けることを軍部は恐れたのです。燃料は片道分と言われましたがそれは嘘で、十分に積んでいたはずです」

 乗り込む前夜、母まきゑさんと呉市の旅館で食事をし、当日は港近くまで送られた。「『長い間ありがとうございました』と敬礼し踵を返すと『あんた、元気でな』と言われましたが振り返りませんでした。これで会えないと覚悟していました」。

壮絶な少尉の割腹自殺と救助を拒否した高射長

 隠密行動のはずだったが米偵察機マーチンがさっと上空をかすめた。「すぐに察知されていたんですね」。いよいよ、敵機は近い。

「艦橋最上部で5メートルもあるニコン自慢の測距儀のレンズを覗くと米機の編隊で真っ黒だった。自慢の45センチ(内径)の主砲を撃つタイミングを今か今かと測っていると編隊はさっと雲上に消えたのです。真上から攻撃された大和は高射砲で応じましたが300機以上の米機はまるで雲霞(ウンカ)の大群。魚雷、250キロ爆弾などが次々と命中し為すすべもありません。大和は結局、主砲は一発も撃てませんでした」。当時、日本のレーダーはお粗末で基本は目視だが、運悪くこの日は空一面に雲が広がっていた。

 ちぎれた手足や首が転がり甲板は血の海。地獄絵図の中、八杉少年は衝撃的な光景を目の当たりにする。可愛がってくれた保本政一少尉が傾く甲板で軍服をはだけ、持っていた短刀で割腹自殺したのだ。「血がホースの水のように吹き出し、少尉は倒れました。私は震えて立ち尽くしました。前夜、褌をアイロンして届けると『ありがとう、明日は頑張れよ』と言われました。彼が秘密の上陸を母に密かに知らせてくれたから母に会えたのです」

 八杉少年は横転した大和の艦橋が海面に接する直前に海に飛び込むが大和が沈没し大渦に巻き込まれる。「洗濯機に放り込まれたように水中をぐるぐる回り、人にバンバン当たりました。息ができず苦しくてもう駄目だと思った時、水中がバアーッと黄色く光ったのです」。弾薬庫に引火した大和が水中で大爆発した。その勢いで運よくぽっかりと水面に浮かんだ。

 空を見上げるとアルミ箔のようにきらきらと光っていた。「きれいだなと思っていたらそれが落ちてきました。砕け散った大和の鉄片だったのです。近くで漂っていた人は頭を真っ二つに裂かれました」。重油の海で力尽きた仲間が次々と沈んでいった。

 沈みかけて思わず「助けてー」と叫ぶと偶然近くを漂っていた川崎(勝己)高射長が「そうれ」と丸太を渡してくれた。「自慢の髭は油まみれでオットセイのようでした。『お前は若いのだから頑張って生きろ』と大和が沈んだ方向へ泳いで消えました。私は高射長、高射長と叫び続けました、川崎さんは救助を拒み、大和が沈められた責任をお取りになったのです」。

 4時間の漂流の末、八杉少年は駆逐艦、「雪風」に救助された。「赤玉ポートワインを飲まされ重油をゲーゲーと吐きました。引き揚げてくれた若い男は『お前、よかったなあ』と泣きながら私の顔を叩いていました」

 雪風が到着した佐世保は一面、桜満開の快晴だった。「『畜生、これが昨日だったら』と全員が男泣きしました」。40キロ以上飛翔する主砲弾が編隊の中で炸裂すれば米軍機10機くらいは一度に落とせたはずだった。

広島では自爆攻撃訓練

 大和の沈没は国家機密。生還者は佐世保にしばらく幽閉された。そして広島へ戻り、母にも再会できたが山中で米軍撃退の「肉薄攻撃」と呼ばれる「自爆攻撃」の訓練に明け暮れた。「棒の先の爆弾を戦車に踏ませるんです。部下は銃の扱いも知らない頼りない兵隊ばかりでした」。

 ある朝、空が光ったかと思うとものすごい風が吹いてきた。原爆だった。すぐに広島市内の現地調査を命じられた。水を求める少年に「後でやるからな」と去った。「水を与えるな」が命令だった。「人生、あれだけは心残りです」。

 音楽の才能の豊かだった八杉氏は戦後、NHKラジオの『のど自慢』のアコーディオン伴奏なども担当した。神戸で修業し、ピアノの調律師として生きたが、被ばくが原因で階段も上がれないような疲労に襲われることもあった。結婚もしたがすぐに離婚された。ヤマハの技師長にまで出世したが、退社後は楽器工房を営んだ。

みつかった戦艦大和

 1980年代に「大和探し」が始まった。調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」。

「潜水カメラの影響でしゃれこうべ(頭蓋骨)が浮かび上がって一回転し、スーッと沈んでいった時は船上の全員が涙を流しました。実は自衛隊の対潜哨戒機が上空から場所を教えてくれたんです」。その後、日本船舶振興会の笹川良一氏などが大和を引き揚げようという計画を立ち上げたが八杉氏は「仲間はあそこで静かに眠らせたい」と反対した。

名作『戦艦大和ノ最期』の嘘を著者に認めさせる

 朗らかな人柄だが事実には厳しかった。名著とされた吉田満の『戦艦大和ノ最期』には救助艇の「初霜」について海面から兵隊が這い上がると艇が沈むため、「ここに総指揮および乗り組み下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひし)めく腕を手首よりバッサバッサと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落す」とある。

 だが八杉氏は「初霜は内火艇と言って羅針盤の磁気に影響するため乗る時は軍刀を持ち込めない。そもそもそんなことする必要もない。艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それにそんな事実があれば幽閉されていた佐世保では『ひどい奴だ』とその話題で持ちきりになったはず。そんな話題は全くなかった」。

 筆者は子供の頃、『戦艦大和ノ最期』を読み、這い上がる兵隊の手首を斬り落としたという場面は衝撃的で鮮明に覚えている。八杉氏に会ってそれが嘘と知り、少しほっとしたが迷惑千万だったのは書かれた当人だ。実名は出していないが旧海軍関係者にはすぐに誰かわかる。兵隊の腕を切り蹴り落としたとされた初霜の総指揮は松井一彦中尉。戦後、東京で弁護士をしている松井氏に筆者も会い取材したこともある。松井氏は訴訟も検討したそうだが吉田氏は五十代で早逝した。

 作品では大和艦上で兵隊たちが議論していた時、臼淵磐大尉が「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。(中略)敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。(中略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」と演説している。この「名言」に八杉氏は鋭く疑問を呈した。「戦後民主主義教育を受けなくてはあり得ない。あの時は全員が『見ておれ、アメ公め』と燃えていたんです。敗れた自分たちが愚かだった、反省して国を再建しよう、なんて発想が出るはずもない」と。

 吉田満氏は東京帝大出身。大和には電測士として乗り込み、九死に一生を得た。「頭のいい吉田さんは鬼畜米英から戦後民主主義にさっと切り替えて、あたかも大和の乗組員が話したかのようにしたのでしょう」。八杉氏が吉田氏に会って問い糺すと相手はフィクションと認めた。「フィクションならどうして実名で書くんですか」と畳み掛けると黙ってしまったという。『戦艦大和ノ最期』は三島由紀夫、河上徹太郎、小林秀雄ら当代一流の文壇人が「ノンフィクションの最高傑作」とこぞって絶賛した。若い吉田氏は「あれは作り事でした」とは言えなかったのだろう。だが名作の影響は大きい。「徳之島」も吉田氏の著作が根拠だった。

 八杉氏は後年、『男たちの大和』の作家辺見じゅんにも「それは嘘です。そうお書きになるなら小説になさい」などと厳しく指摘した。

 2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史ら出演俳優らに、高射砲の撃ち方などを実技指導した。その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑っていた。

 感動的な講演を続け、川崎高射長の場面では必ずしゃくりあげた。一年半前、久しぶりに福山市内の施設で会った時は認知症も進み、いつも「粟野先生」と呼んでくれていたダンディな八杉氏が筆者が誰か判別も付かずショックを受けた。

「敗戦の象徴」の生き証人はいつもこう訴えた。「平和は向こうから歩いてはこない。自ら掴み取るのです」。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年1月21日 掲載』


デイリー新潮
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/01210601/?all=1
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