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2019年11月07日07:52

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映画「それから」或るニートの苦悩。

「歩きたいから歩く」すると歩くことが目的になる。自ら目的をもって何かをすることに疑念を呈する資産家のせがれにして高等遊民の長井代助。明治後期の日本でこういう考え方・思考を歴然として生きる男を描いた苦悩的作品。

代助は同窓生の妹・三千代に心底惚れていた。が、世俗的な恋愛観を捨て、また別の同窓生・平岡に三千代を譲った。そしう相思相愛の体は崩れ、女は時代の隅で蟄居せざるを得なかった。三年ぶりに東京に戻ってきた平岡夫妻は資本主義の社会構造に疲弊していた。会社を辞め、代助に無心に訪れたのだ。久しぶりに見た三千代は代助の目にもいささかやつれていた。三千代を心配する代助は、父親にカネの工面をしてもらいに行くが、それもかなわない。働いてもおらず、ただ毎日読書をしたり考え事に噴ける代助には当然手の施しようがなかった。それても三千代の力になってやりたいという思いばかりが空回りしてしまう。

パンのために働くことを良しとしない、現代版ニートの代助は、それこそ働いたら負けなのである。ニルアドミラリなる怜悧な感覚。終始淡々とした代助の語り口調。これらが美しい音楽に漂いながら、時として幻想的な回顧シーンとまみえつつフィルムは回っていく。代助の苦悩は自らに正直になり、三千代を妻として迎い入れようという一点に帰結する。が、大人の建前的世界ではそんなわがままは通らず、結局孤独となった代助は三千代を動揺させるばかりだった。そしてついには父親から感動され、友人平岡から絶交される。己の都合を優先させ、日常の思考方向は現実に代助を助けてくれるものは明治期にはまだ見つからなかった。

夏目漱石の原作を忠実に再現させた本作品は、現代的考察の対象として幾多の例に紐づけされた。働かず、ただ自分のできる範囲のことを親から受ける援助に任せて遂行するニート。当時の三十代なら現代の四十代くらいの思慮があったと推測する。筆者は何べんも原作をむさぼり読み、自分に都合よく代助の生き方を処理してきたが、今のところ彼の生き方は是として捉えている。一般社会のルール・暗黙の了解、こういう物差しだけで代助を排除することは危険千万である。働け、とはいったいどういうことなのだろうか? 金のある家に生まれた子女が働いてさらに富が生じれば、不要の富が蓄積され世の中が形成されてしまう。富の分配という観点からしても、働かないことは消極的には善であると考える。
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