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2020年09月22日00:44

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鬼平はんかちょん

BSフジで、19時〜の枠で時代劇の再放送をやっている。特にその時間、つまらないバライティ番組くらいしかやっていないので、この枠の時代劇を観ている。
時代劇は好きだがあまりにマンネリだと、さすがに毎日観ていると飽きるので、だんだん観なくなってくる。
その中で、月曜日に放映している『鬼平犯科帳』が格段に面白く、今は録画までしてみるようになってしまった。
『鬼平犯科帳』といえばあの池波正太郎が原作者。池波正太郎原作は『仕掛人梅安』(派生して必殺シリーズ)、『剣客商売』、『雲霧仁左衛門』などどれをとっても面白い作品が多く、小説でもそこそこ読んだ。
『鬼平犯科帳』は大学の頃のゼミの先生が、ある日、特別講義と称して「鬼平犯科帳講座」をやったことがあって、その時に凄く興味が湧いた。何せ大学時代の専門は江戸文学ですから。
時代小説なんだけど、時代考証がしっかりしていて、食べ物の描写が素晴らしいことや、勧善懲悪ではなく、悪の側にも義があったりとかそういう複雑な心情が面白いこととか。その時にちょうど、父親が小説を随分持っていたので借りて読んだ。その頃はドラマ化もしていたので、ドラマも少し観た。
確かに面白いのだが、その頃は他に興味のあることがたくさんあったし、そこまで深く人間について知っているほどの年齢でもなかったので、ちょっとかじった程度で終わってしまった。
そして今、中村吉右衛門が演じる『鬼平犯科帳』を観て、ずっぽりとハマってしまったのである。

ハマった理由の第一は、中村吉右衛門がカッコよすぎること。
大学生の頃は、歌舞伎役者のことはよくわからず、時代劇といえば、定番の北大路欣也や、杉良太郎、中村主水があたり役の藤田まことなどが好きで、中村吉右衛門てよくわからんなあ・・とあまり興味がなかった。
しかし今みると、なんというシブさ、カッコよさ。鬼平第1シリーズの頃は、だいたい45歳くらいで今の僕の年齢より若いが、それでこのシブさはたまらない。
セリフもたまに歌舞伎がかるのだが、それが物凄く自然に時代劇にハマるし、火付盗賊改メの頭としての誰にも恐れられる平蔵と、悪童だった頃のそのままのワルガキ平蔵の使い分けや、奥方・久栄の尻にしかれる亭主の平蔵、それぞれの使い分けのギャップが、今時でいう「ギャップ萌え」なのである。
ハマった理由の第二は、善悪を超越した人間の業というか、単純に、「悪い奴だから斬る!」みたいな時代劇の定番を超越した、深い人間ドラマである。
火付盗賊の仕事は、徳川幕府に命じられたいわば特殊警察で、盗賊・火付けの跋扈に奉行所だけでは対処しきれなくなっていた江戸の町に、特別に設置された凶悪犯対策警察。今でいうマル暴みたいなもんか?ちょっと違うか。
そんなわけで、特殊な権限を与えられているため、火付盗賊の仕事自体が、もう何でもありで、監禁拷問はあたりまえ、捕まえた盗賊を密偵に使ったり、手段を選ばない。
そのため、そこの組織のボスである長谷川平蔵は「鬼の平蔵」と巷では呼ばれ怖れられている。
しかし、ドラマは、ただ単に無敵の火付盗賊、悪を成敗!非情の鬼平により盗賊徹底壊滅!というわけではない。
例えば、盗賊には盗賊の世界の掟があって、かつて世話になった親方の義理は外しちゃいけない、とか、人を殺めてはいけないとか、人道に反する行為は許されない。盗賊同士で、掟を破ったものを懲罰したり、追放したりする。
しかし所詮は犯罪者集団である。やはり非人道な鬼畜の所業を平気でしてしまう奴も出てくるし、そういう盗賊組織もある。
そこに例えば、盗賊稼業から足を洗おうとしていた、ある盗人が、その腕を買われて盗賊組織から仕事依頼が舞い込む。その盗賊の頭に、過去に恩義があれば、断ることはできない。が、頭のやっていることは、人道にもとる行為であったりする。そこに本来、悪党であるその盗人にも迷いが生じたりする。
火付盗賊は、その情報を掴んでいて、すでにその盗人の身辺調査などをするのだが、長谷川平蔵は様々な状況から、その盗人の心の葛藤を見抜く。
そしてその盗人に近づき(盗人は普段は裏稼業を隠しカタギの仕事をしている)、いろいろと揺さぶりをかける。
つまりは、義理立てしなきゃいけない事情は仕方ないので、義理立て後はうまく逃げてこい、その後はこっちで密偵として使ってやるといったように。
まあだいたいの話は、結局、盗人は平蔵に協力したことがバレて殺されてしまったりとか、結局はカタギになれず逐電したりとかするんだが・・
長谷川平蔵は、そういうのを全て腹に飲み込み、常に涼しい顔をしている。逐電した盗人に、平蔵の部下が「追いかけてひっとらえます!」というと、「まー捨て置け。奴には奴の事情がある」(こういう場合はだいたい盗人に家族の事情などがあり逃げ出したりしている。平蔵はその状況も把握している)と、それ以上の深追いはしない。
中村吉右衛門がこういうセリフをいうと、なんというか、粋なんだよねえ・・
ある時は悪党を徹底して容赦しない非情っぷりもみせる。ある時はあえて自分がお上からお咎めを受けるのを覚悟で盗人を見逃す。全てをわかっていて、余計なことは言わず、ただ笑っているだけだったりする。
その上、盗賊のアジトに乗り込むときは、先陣を切ったりして無敵の強さをみせる。
もうなんていうか、男の中の男がぎっしり詰まっているんですわ。。
ただ単に、旗本の息子、武士のエリートなのではなく、若かりし日は遊び人であって数々の失敗もしている。その頃の失敗を知っている輩が、それを逆手に平蔵を脅す話などもあるが、平蔵、涼しい顔して「だからどうした?」とぜんぜん取り合わない。
このように、平蔵の懐の深さを演じる中村吉右衛門のカッコよさ+一筋縄ではいかぬ人間ドラマがマッチして、すっかりハマってしまったわけである。

で、ちょっと話は飛ぶが、今時の若者(若者は昔からそうなのかもしれんが・・)って、自分の都合ばかりで他人を慮るのが損とばかりに、自己中心的な奴が多い。まあインターネットの発達で、そういう他人の心情がわかるような時代になっただけともいえるが。
常に俺は正しい!私は正しい!間違っているのはお前だ!みたいのが多すぎるし、他人の利益なんぞ知ったこっちゃない、自分だけ得すりゃいい、っていう主張を平気でしているのを良く見るが、もう目に余って仕方ない。
で、『鬼平犯科帳』をみて思ったのだが、今ってこういう、わかりやすくカッコいいヒーローがモデルとしてあまりいなくなったのかもしれない。いるんだけど流行らなくなったか。。
自分が命を投げ出して前線に立つ、盗人でもそいつの人生を慮って寛容に対処する、など、そういうモデルがあって、あーカッコイイなーという憧れがあれば、多少なりとも自分の哲学とか行動原理に影響はしてくるだろう。
そういう人が結局は尊敬されて、周りから恐れられもするが畏れられる存在たりうる。そういう男になりたい、という多少の意識があれば、行動もかなり変わってくるだろう。
例えば、今時の若者に限らず、いやむしろ僕と同年代のおっさんに多いかもしれないが、クドクドネチネチ理屈をこねくり回して、「私の理屈は正しいでしょ?あんた反論できないでしょ?だからあんたの負け。はい終了」みたいのを結構みかける。いわゆる「はい論破!」てやつな。
まー本当に恥ずかしげもなく「はい論破!」て言えちゃう浅ましさもそうだが、「はい論破!」によって、相手が引いちゃったとしてそれで満足なんだろうか?俺は勝ったぜとかドヤ顔しているんだろうか?多分、引いた相手はもう話になんないから関わるのをやめただけだと思うのだが。
それよりも、いい歳の男がいつまでもクドクドネチネチと言っていること自体恥ずかしいし、「はい論破!」などと言って勝ち誇っているその行為が浅ましい。客観的にみて、ものすごくカッコ悪い。
そんなカッコ悪い自分に対して自己嫌悪に陥らないのだろうか?
カッコ悪い自分より、カッコよい自分を演出したほうが何万倍も人生豊になると思うんだがなあ。そういうカッコよい像のモデルが最近減っているのかもしれない、、と『鬼平犯科帳』を観ながら思った次第。
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