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2020年01月18日17:31

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奧医師の家計(収支報告)

相模国に領地を与えられていた、代々幕府奧医師の曾谷氏。
旗本とは違うが、お江戸暮らしの領主という意味では同じ。
その収支報告ともいえる文書があって、なかなか興味深い。

<事前情報>
曾谷氏は開幕以来の奧医師だったようで、当初は千石もらっていた。
江戸幕府が抱えていた医師は、臨時採用などもあるので一定ではないが、文政年間の「官医分限」によると203人もいたらしい。

そのうち本道(内科)が127人。外科25人、小児科21人、鍼14人、口科(歯科)6人、眼科5人、薬苑2人、ほか2人、痘科1人。
その中で最も高給取りだったのは
久志本氏 2000石 代々寄合(神奈川に領地があった)
曲直浜氏 1900石
半井氏 1500石
今大路氏 1200石 典薬頭
数原氏 1100石(本家とあり、分家500石なので元は1600石)
岡本氏 1000石
竹田氏 1000石
曾谷氏も当初は1000石で、後(宝永7)に弟へ300石を分知し、色々あって630石で幕末を迎えた。

といった感じで1000石以上はごく一部。大半は領地ではなく100俵とか多くて400俵の蔵米取りか、それよりランクが下がる10人扶持とかの扶持米取りだった。

蔵米取りの最高は400俵、最小は80俵
扶持米取りの最高は70人扶持、最小は15人扶持
註)35俵5人扶持とかもあるがそれは除く。
なお、余談ながらこの時代の幕領で100石は285俵ほどに相当する建前。1,000石だと2,850俵の収入(額面)。
630石は1,800俵であった。
ついでなので、1人扶持は1.77石相当。10人扶持だと17.7石となる。
上記の換算はhttp://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/houroku.htmによる。

もともと1,000石だった曾谷氏は、結構な身分の医師だったことが判る。

なお、以下の2つの文書は領主曾谷氏の用人が知行地へ出したもの。
<<天保15年正月 借用金高并米永取調帳>>
153両、利息1割2分。86両、無利息。合計241両。=大磯宿 播磨屋嘉兵衛。
200両、無利息20年賦。=内藤新宿 喜八。
86両、無利息年賦、年に20両割済。=三河町 升屋嘉兵衛。
30両、去11月借用。=藤村 丸屋重蔵。
20両、2年割済分。=沼津 鹿嶋甚太郎。
110両、去12月借用、利息1割先納。49両、利息1割先納。合計159両。=相州南金目村 文右衛門。
〆 735両
外 
120両 御郡代金、村拝借金共。
10両 証文金。 三河町 升屋嘉兵衛。
〆 865両
御知行所先納上納
27両 過納 南北金目村
33両 先納 酒井村
7両 過納 酒井村
10両 先納 日向村
6両 卯年過納 日向村
3両 先納 小鍋島村
3両 卯年過納 小鍋島村
18両 卯年過納 大句村
〆 975両
御物成米永共 相場両に1石見込み
149両 南北金目村
60両 酒井村
50両 大句村
23両 日向村
10両 小鍋島村
〆 293両(4貫文=1両が合算)

読み方を間違えていなければ、借金が975両ということ。
最後の293両は1年の収入の見込額である。
怖いですね〜、これだけで見ると年収の3倍以上の借金w
武士の旗本の場合、出役やら何やらで金が必要だが、奥医師が何に使っていたのかまでは、ここからでは判らないのが残念。

そして同じ日付の別文書。
銭も相当な額があるけど省略。
<<卯御賄諸色書上帳>>
天保15年正月 
御収納米永 田畑米永共
南北金目村 165両
酒井村 67両
大句村 55両
日向村 25両
小鍋島村 10両
〆 326両(銭4貫文=1両が合算されている)。
南北金目村 71両
酒井村 26両
大句村 13両
日向村 15両
小鍋島村 4両
〆 135両(銭4貫文=1両が合算されている)

おそらく326両が米の分。135両は畑の野菜とか。
原文では、以上の収入分の小計は出していないが、計算上は461両と銭2.335貫文。
これが年収総額と思われる。
前の借用金帳だと領地からの収入を293両にしているが、あれは米だけの見込み金額で、実際には卯年(=前年の天保14年)で326両あったことが判り、さらに畑からの収入を含めると461両あったことが判る。
ま、それでも年収の倍の借金だけど。

外 こちらは支出か
25両と銭823文 郡代納
16両 三河町升屋 割済
10両 内藤新宿喜六 割済
1両と銭256文 文左衛門
13両 沼津 割済
〆 67両
村々利足惣〆高 61両
過納引さり金控
南北金目村 27両
酒井村 21両
大句村 7両
日向村 1両
小鍋島村 3両
〆 5口 62両
惣〆 326両と銭737文 こちらが支出総計か

借金の返済と村から借りている金の利息と、最後の「過納〜」は、村が領主へ納め過ぎたり、先払いした金額を年貢から差し引いた分である。

米や野菜など、家族が食べる分は現物納で、残りは金にするのが一般的だったので、曾谷氏は借金を返済しても461両-326両=135両の現金収入があったことになる。

さて、この2通の文書は領主曾谷氏の用人が知行地へ出したもの。
受取人は2つの村の名主2名で、領地5村の惣代でした。
不思議ですねぇ、領主が自分の収支報告を領民にさらすなんて。
現代のように会社の収支報告を社員全員が見られるのとはワケが違います。

以下は想像ですが、領主の借金がだいぶかさんでいると心配した名主連中が、内情を教えてくれないとこちらも対処できないとネジ込んだのでは。
年貢を納めるとき、領主ではなく他の商人とかに納めている事例があったり、他の大身旗本でもお殿様の経営が下手過ぎたり無駄遣いしすぎたりで、村が悲鳴をあげて「ちょっと考えてくれよ」と歎願してる文書などもあるし、中には管財人のようなことをしている村もありました。
ある日突然、お金いるからちょーだい、との御達しが来くることは決して珍しくないと、村の文書見てると判ります。

曾谷氏の知行地の村々は、これを見て「あ〜、まだ現金収入があるのね」とひと安心できたのか、「この調子だとまだ借金しそうだなぁ」うんざりしたのかは不明ですがw
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