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2019年12月07日17:31

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とある村の十里四方追放事件の流れと庚申塔

長文の覚書
300年以上昔のネタではあるが、現代においても支障があるかもしれないので、村名はぼかす。

元禄16年(1703)の大地震、いわゆる元禄地震(推定震度7)の4年後におきた宝永地震(これも震度7だが関東での被害は大きくなかった)と、その49日後におきた富士山の宝永噴火によって、相模国の村々はかなりの被害を受けた。

宝永4年11月23日昼頃(1707)。噴火開始。
宝永4年11月24日〜12月8日。数度の噴火と降灰が続く。
降り積もった砂はとある村エリアでどれくらいだったかは不明だが、ひどい所では30cmほどもあったようで、幸いだったのは年末で田畑に作物が無かった時期だったことくらい。早々に砂を除去して来春の田植えや種付けに備える必要がある。

宝永5年正月(1708)。
とある村の砂降りの状態を領主に提出した文書が残っている。
田26町ほどの内、1.7町が砂敷潰田。畑52町ほどの内、43町ほどが自力で秋作困難という内容であった。
ところが、とある村の名主は村民に「鍬留め」を命じた。春になっても鍬留めを命じている謎の対処。そこへ村の領主である旗本の用人が巡見に来て、「御救被下候」とあるので資金援助したのかもしれないが、それによってやっと開発(砂除去)をし諸作付が始められた。
しかし時が遅く作物の出来が悪いまま秋となり百姓は大迷惑を被った。百姓は名主が原因だと領主に訴え、名主は詮議を受けたが「そんなもん百姓連中の嘘だ」と言い出す始末。百姓と名主の言い合いとなり、結果は領主が「まぁ百姓同士でうまく助け合ってやってよ」と裁定。
宝永5年11月。
名主抜きで村の運営をできるということで、村民は喜び感謝の証文を提出した。もちろん、名主vs村民の対立は解決していない。

宝永6年9月(1709)。
ほぼ1年後、領主が名主一族の追放を言い渡した。なかなかきつい言い方で面白いので書き出してみる。
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「とある村A左衛門、B兵衛、C右衛門江申渡覚
右三人儀役義勤候内、数年私曲不届之儀共相聞候ニ付、段々詮議申付候所、相尋儀をも違背に及び、剰(あまつさえ)地頭へ対して悪言申す段、一々不届き至極に候。此の度に限らず先年蔵米を相払間敷段を申付候ても違背致し、去年石役金の義を申付候にも返答をも致さず、毎度地頭を軽め候段、年来の不届は違背人にて重罪の者共である」。
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これによって申渡された罪状は死罪。しかし長年名主を勤めて来た功労もあるので罪を減じて「江戸10里四方と知行所とある村10里四方の追放。もし近隣を徘徊した場合は召し捕って死罪とするので覚悟せよ」というもの。かつまた「米穀のほか、家財は憐憫をもって残らず妻子にとらせ、田地・家屋敷は欠所とする」というものであった。
ちなみに名主はB兵衛、C右衛門は組頭で、この両名の父親がA左衛門という関係。
なお、とある村から10里となると神奈川県のほぼ全域がNG。そこに江戸も加わっているので、早い話が北関東か伊豆山梨方面に行くしか無い。

宝永6年9月。
凄いもんで、家財の一覧が残っている。これも面白いので名主だけ書き出してみる。
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B兵衛家財闕所(欠所)覚
稗3俵、粟1俵、種麦2俵、籾3斗、稲3駄、種大豆1斗、種小麦1斗。
長持1枝(着類入)、櫃2つ(着類入)、釜大小2口、鍬5具、鎌7具、茶道具1通り、つき臼2つ、石臼2つ、畳51畳、桶大小18、持仏1間、戸棚1間、碗膳20人前、すき鍬1丁、まん鍬1丁、水風呂桶1つ、味噌3樽、手洗大小3つ、鍋大小7つ、馬1疋、鞍2口、籾すり臼1つ、草わら2駄。
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持仏というのは仏壇か。さすが名主だけあって畳が51畳もあるし、馬もいるし、膳碗が20人前とかなかなか。
稲の3駄とは、1駄がおおよそ36貫目で135Kgくらいらしいので、405Kg分の稲藁?状態のものか。
これらのうち作物類以外の家財を妻子に渡して追放である。


宝永6年10月。
追放された名主・組頭一族の田畑からどれくらいの収穫があったかの覚書が提出される。

宝永6年12月
追放された名主・組頭一族の屋敷や土地と、とりあげた米穀類の値段が決まり、それを領主に上納した。
大雑把に34両と銀27匁であった。

同年同月
追放された名主の畑を買っていた人物からの証文が届く。畑9畝を2両ほどで買ったが、とある村が金を払えばいつでも返すと申出た。
追放された名主・組頭一族の田畑は合計で高85石もあった。とある村の総高のうち、領主分は390石ほどだったが、全体の1/5ほどにもなる。

この、とある村の史料は一連の騒動のものばかりだが、その中に1つだけ違うのがある。
とある村が砂降り後、どの程度の状況だったかがうかがいしれるので追加しておく。
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宝永8年3月(1711)。
とある村の吉左衛門は身上が叶わず田畑を売り、その後死んでしまった。倅の牛之助は幼少で父に捨てられ、親類などを流浪しながら成人し吉左衛門を名乗っていた。倅の方の吉左衛門を養っている親類から、とある村へ願書が届いた。
こんな育ち方をしたが、無作法ではなく性格も穏やかである。本人は水呑百姓でいいから帰村したいと願っている。そちらの地頭様へも皆様(とある村の村役人衆)からも、申上げてもらえないだろうか。
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この結果がどうなったのかは不明。

正徳5年3月(1715)。
追放されてから6年後。欠所となっていた田地のうち3石ほどを領主が寺へ寄進した。ついでに金銭も寄附したようで、寺は「田は不要でござる」と断ったため、その分の田地を後任の名主へ与える、という書状が出された。

享保元年10月(1716)。
正徳5年の翌年。万部供養による赦免の要請があったらしい。
正徳6年6月、7代将軍の家継が逝去し享保に改元されたので、それに伴う法事が大々的に営まれたのだろう。上野輪王寺と芝増上寺から使いの僧侶が領主の元へ来たと書いてある。江戸の法制史に詳しくないが、代替わりの大赦は令和の時もあったし、江戸時代もあったのだろう。もちろんとある村の領主(=旗本)だけでなく、全国規模だったと思われる。
これに対し、領主は「重科の者は、そもそも死罪を減じて追放としたので、この上の赦免は一切ない」という判断を下した。それだけでなく「今後も万一赦免の沙汰があって、この書付をもって何方へも伝え受け入れるべからず」と書き添え、さらに名主一族の欠所となっている田地だが、其の方(後任の名主)の名田にしてやる。と書き、花押付で後任の名主へ書状を出した。
なんだかすっげー反応で、先代の名主一族はよほど態度が悪かったのだろう。

享保6年11月(1721)。
領主が逝去。領地は子に引き継がれた。

享保8年9月(1723)。
さて、追放された名主一族だが、黙っていたわけではなかった。あの手この手で帰村運動を計っていたらしい。詳しいことは判らないが、先代の領主が死んだことで、運動が活発になっていたのか、後任の名主の名田になっている分を買い戻すとか、追放名主一族の妻子の分だけでも田地を戻して欲しいなどの願いを新領主に打診したり、後任の名主の悪巧みによって先代領主が厳しい態度をとったので、呼び出して詮議して欲しい、何なら我々(追放名主一族の支援者達)が奉行所で対決してもいいと言い出したりしていた。
これに対し、後任の名主は、旧名主一族の田地は自分の名田ということで、年貢を納めるために百姓へ使わせている。それを戻すなんて無理だし、そもそも妻子を戻すって、先代の御領主様の御遺志に反します。と反論はしたが、新領主が「許してやろうよ〜」と言張ったため、妻子の分についてはしょうがないのでOKした。所が旧名主一族はそれでは納得せず、全部返せと言い出した。
そこで後任の名主は、新領主の上役と思われる人物に訴状を出した。
余談だが、使っている百姓は水呑もいただろう。吉左衛門が戻れていたかもしれない。

享保12年12月(1727)。
旧名主一族の妻子を引き取って養育している親類(おそらく妻の実家)と、旧名主の甥を訴訟人とする連名訴状が奉行所へ出された。
当然のことながら、後任名主が悪いという趣旨の内容だが、養育が大変なんでございます、という情もからめている。
そして、後任名主に対し、12月21日に評定所へ出頭するよう通達が出された。

しかし、この対決は実現しなかった。
12月13日に勘定奉行、町奉行、寺社奉行などの連名で、この訴訟は取上げないという結論が下ったのである。
この場合、訴訟人の親類達は手鎖の罰を受けるのだが、それは免じられた。

ちなみに、妻の実家と思われる親類は、とある村から東へ半里ほどの村。旧名主の甥は南へ3里ほどの村。
妻子はともかく、甥の方は絶対に旧名主達に会って相談してるはずだが、10里四方追放はお目こぼしされたのかw

享保13年正月(1728)。
とある村の惣百姓連判状。
判決に従う。加えて旧名主一族は言うに及ばず、家来や親類の者達とも馴れ合いしないよう領主様から仰付けられたので、それも堅く守る。という連判を39名が後任の名主へ差出した。

なんと20年にもおよぶ騒動がこれで決着となった。

オチをつけなければならないw。

とある村の八幡神社にボロとまともな2基の庚申塔がある。

ボロは資料によると
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寛文8年9月24日(1668年)
「山王21社の種字 為庚申供養二世安楽」
相□大住郡とある村 惣旦那衆敬白。

まともな方は
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宝暦3年11月(1753年)
「庚申供養」
南 かない道
北 いいや満道
西 日向大山道
とある村 施主足立七良兵衛 ほか8名?。
註)施主は後任名主ではないw

百年近く間があいているし、このエリアは寛文でもボロなのがいくつかあるので、この点はやむなしとして、ボロなら再築とかいう方法も無くはないが、惣旦那結衆の中に旧名主が入っていたから朽ちるままだった、という線も排除しきれない。
ひじょーにうがった見方をすると、宝暦塔の道標に東がないのは、馴れ合いません(=親しくしない)と誓約した村が東にあるからでは、とか(笑)。
そもそも寛文塔は正面から撮影できないというか、植木で隠されてるのだ(((;゜Д゜)))
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