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2008年03月09日22:05

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山本順也さん!(1)

ヤマダトモコさん司会進行で、伝説の名編集者、山本順也さんのお話を聞く機会がありました。めったに表舞台に出てくることがないのが編集者の常なのでしょうけれど、編集者業は引退されたということもあり、いろいろ貴重なお話を聞くことができました。
山本さんの簡単な略歴はこちらになります。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2004/merit/yamamoto/
例によって、ずいぶん意訳あります。固有名詞があやしいところもありますし、抜けも多々あると思います。フォローいただければ幸いです。

まずはじめに、ヤマダさんが担当されてる「少女マンガパワー展」の経緯から。徳さんから全米で少女マンガ展を巡回したいという相談があったときに、原画をお借りするのにマンガ家さんに直接交渉してもまず難しいので、マンガ家さんが信頼してる編集者から依頼してもらったほうがよいとサジェスチョンしたことなど。

それから、山本さんの話へ。小学館へ入社して、まずは婦人誌「マドモアゼル」に配属され、その後絵本の編集に携わり、そのときに「ジャングル大帝」復刻版を担当して手塚治虫先生と知り合うように。順番がまわってくるのは遅く、手塚邸で待つ間、奥さまにもお世話になり、またマコちゃん(2歳くらい?)の相手もしてたそう。自分自身は世代的にもマンガとは無縁で育ったけれど、手塚先生と話すうちに、マンガの中のジャーナリスティックな波を感じて面白いと思うようになったこと。

当時、小学館は学習雑誌、学年誌がメイン。マンガなど娯楽関係は集英社にまかせればいいという考えだった。少女マンガ誌も他社と比べて遅く、68年に「少女コミック」が創刊される。しかし、創刊に際して編集スタッフを用意してくれるわけでもなく、まず作家さんもいない。集英社からもひとりも紹介してくれなかった。この頃は女流マンガ家を出版社が専属にして抱えてる時代だった。山本さん自身がすべていろいろ手配するしかなかった。学年誌の4・5・6年生対象の女の子マンガを描いてる作家さんを連れてきて描いてもらうことに。

少女マンガ家の絵の区別ができなかったので、目だけ切り抜いて見分けがつくように勉強したこと。ただし、COMなどに描いていた、作家性の強い女性作家の作品だと区別がついたそう。虫プロの山崎さん、秋田書店の壁村さんとも懇意になり、峠あかね(真崎守)、永島慎二ほかの方々とも知り合う。細川知栄子(智恵子)読みなよと言われたり。その頃すごいなと思った少女誌はりぼんコミック。小長井さんがいらした頃でしょうか。

自分では作家を育てたとは思っていない。環境さえ整えば、作家は自ら育つもの。女性は最初から自分の世界をもってる人が多い。またやっぱり当時の読者が凄かったと思う。
別マ、おしゃれなりぼん、地に足のついたリアル指向の講談社が少女マンガ誌をリードしていたが、集英社と同じ作家をもってきてもつまらない。どうせならライバル誌から作家を引き抜いてこようと思ったこと。萩尾望都、竹宮恵子が講談社でボツになったものを全部載せた。大島弓子は『誕生!』のときから凄いと思っていて、何年かのちにマーガレットから少女コミックへ。大島さんは直接の担当はしていない。
少女マンガの編集をまかされて、自分が面白いと思ったものをまさに独断で載せた。小学館の中でもワキにいたからこそ、好きに自由に自分の思うようにできたこと。ちゃんとした体制だったらできなかった。いろんな実験をしてるようだった。まさに隙間だったと思う。「自分の趣味で出してる」と周囲に言われてたと思う。あいつと一緒に仕事したくないと思われてたろう。最初の頃は週コミも別コミもほとんどひとりでやってた。それでも、永島慎二、真崎守、宮谷一彦、他方面からも少女マンガ注目されるようになっていた。

作家の描きたいものは最初から色々聞いている。
竹宮恵子の『風と木の詩』のモチーフは、大泉サロン以前の初期の頃から聞いていた。びっくりしたけど、今、世の中に出すのは無理だしまずいから、自主出版で出すしかないだろうと最初答えたそう。
萩尾望都は当初人見知りで、下を向きながら「SFが描きたい」と言われた。しかし、山本さんはSFに興味がなく全然わからなかったので、SFマニアの外注スタッフのつてで、いろいろSFを教えてもらった。萩尾作品初期はSFというよりはFF(ファンタジーフィクション)だった。そういえば、『遊び玉』の原稿が紛失したのは俺のせいだということになってるけどな、とか。

74年初の単行本化について。「少年サンデー」でも苦戦してる時代だった。上司に呼ばれて、1年で1万部売れなきゃ駄目と言われた。萩尾望都の『ポーの一族』と上原きみこの『ロリィの青春』が候補にあがり、最初はポーを選んだ。そしたら、あっというまに売り切れた。みんな待っていたのだった。世の中が動いていたし、マンガもそれに同調していた。ポーがメチャ売れたので、週コミで人気のなかった『トーマの心臓』も最後まで連載を続けることができたのだった。作家がどういったペースで仕事をすると完成度の高いものをつくるか、タイプがある。
週刊のキャパだったのは竹宮恵子や上原きみこ。月刊ペースは萩尾望都や大島弓子。

萩尾望都の第一期作品集(通称赤本ですね)、77年に刊行。他の出版社にニラみがきいていたのか(笑)、他社で発表された作品も入っている。
赤本、緑本(竹宮)、青本(上原)の作品集のこと。上部に出させてくださいとお願いした。売れるという確信があった。萩尾第二期作品集はSFがメイン。

山本さんには少女マンガ編集でない空白の3年がある。ビックコミックオリジナルに異動の時期があった。そのときには萩尾望都に『十年目の毬絵』を描いてもらった。面白いことに、少コミの作家たちが他誌で活躍してる時期と重なります。作家さんがついていく編集さんは何人かいらっしゃいますが、山本さんの場合もまさにそう。
3年ぐらいしてまた少女マンガ誌にもどり、「プチフラワー」「フォア・レディ」をたちあげる。フォアレディでは牧美也子、竹宮恵子、倉多江美、水野英子、土田よしこ等。ヤマダさんがおっしゃるように、作家さんにとって後に残る作品、代表作を描かれる場を提供されてるのでした。

(長くなったので、ふたつにわけます)

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