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2019年08月17日20:01

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『天気の子』(新海誠)・・・偽の問題解決とありえないピストル

たいへん多くの観客を集めた前作『君の名は。』の次回作が『天気の子』ということになる。当然、多くの小学生や中学生も見に来る。何も私が日記で道徳的なことをいうつもりもないが、日本でリアリティのない、不要なピストルをアニメに出し、後半の騒ぎを盛り立てるために使うのは、何か作り手に足りないものを感じざるをえなかった。自分が作ったものをどんな客層が見に来るかわかっているはずの、新海さんはこれでいいのか、わたしは疑問に思った。事実、映画館はいっぱいで、前列に小学生と親が何列も陣取っていた。


まあ、それ以外でこの映画はどうだったかといえば、前作に比較しやはり話がそう複雑ではなく、あまりテンポもよくなく、話の作りの点でも「すごい」と驚くべきものではなかったように思う。おそらく世間で騒いでいるのは、いわば「世界系」をめぐる解釈であろう。彼は人身御供をともないつつも、世界を救える小さな救世主的存在を、どうこのアニメで扱ったのかという問題だ。

前作『君の名は。』もまた二項対立の境界をめぐる問題に満ち満ちた物語を用意していた。男女、昼夜、過去と未来(現在)、こちらとあちら、などいちいちその仕切り(敷居)を問題化していた。またその境界をいかにまたぐかが、問題を解く鍵となるというドラマツルギーを構築していたと言ってよかろう。それはそれで偽の問題である「二項対立」に揺らぎをもたらす心地よさとそのことで開けるラストの再会の物語はカタストロフがあったといってよい。

『天気の子』で問題になっているのは、「世界系」の物語をこの映画が否定したというものだろう。これまでのアニメ作品なら世界のために体をはって場合によれば命を失ってしまうヒーローやヒロインが称揚されてきたと言ってよい。しかし新海さんは、この映画で世界を滅ぼしても個人を救う、と宣言したわけだ。この映画を見ていただくしかないが、前作の偽の問題である「二項対立」の罠に、この話はまんまとひかかってしまっていると感じた。「世界」を選ぶ「世界系」か、「世界」を捨ててでも「個人」を守るかという偽の問いなどをしり目に、せいぜい前作のその境界のゆらぎやすき間を問題にすべきだったのではないだろうか。

むしろこの偽の問題には答えないというべきところを、彼は「世界」より「個人」だといい、しかも自信がなかったからか、「俺たちは大丈夫だよな」と念を押す始末だった。「世界」より「個人」などと言いきれるはずもなく、また「個人」よりも「世界」などといういうのは悪徳な連中だけで、その偽の問題にこだわらず、どちらともえいないところを生きざるを得ない悲しみの共有が、まだ前作にはあった、というくらいにしておこうかと思う。

話のラストがどうしても盛り上がりに欠けるように感じた新海さんかスタッフか、プロデュ―サ―がきっと指摘したに違いない。警察にこいつらを追わせようと。そのために不必要なピストルを、手にできるように設定しようと。なんの必然性もないピストルもこうやって偽の問題に足をすくわれたところから、きっと副次的に生まれたものではないかというのが、私のうがった見方だが、ご覧になった方々、いかがでしょうね。


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