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2020年10月19日23:11

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“スクランブル理論”は極めて筋が悪い愚論。

切り口は色々あるメディア議論全般にあって、
NHKの扱い・考え方は中々難しいのよね。

原点はやはり「公共放送」にある“公共”の概念。
ここが基点で一番重要な部分にもかかわらず、実は案外蔑ろにされている。

パブリックメディアの意味。
放送法を基にして、歴史経緯から考えないといけないもので、
「公共に資する」とは如何なるものか、この論点が実は共通認識にない…と。
辿れば「NHK自身が足下を揺らいで来た」わけでもあったりする。

公共とは何か。
放送に関係なく、そもそもとして公共の概念性が薄弱化している現状で、
NHKの公共性を、国民側から問う事自体も脆弱な状態にあるのよね。

公共性は、時代変化に伴う習慣性とか、価値性とか、様々な要素が絡んで来るので、
一律に確立出来るものでもないのだけれど。

しかして、一律に出来ないゆえに、何処から何処までが公共性にあるか、
何処からが公共性を外れるかは、結局観る側の主観に拠らざるを得ず、
その観点では「公共放送」という区分に拠るメディアの、存立自体が極めて難しくなる。

即ち、こんな曖昧な基準であるものに対し、公共放送という特別な区分と
それ相応の権限を有するNHKメディアが、スクランブルの基準を一方的に定める…
という行為自体がそもそもナンセンスで、甚だおかしい話。

とどのつまり、NHKが
「これは公共性がある番組なので無料開放しますが、こっちはその限りじゃないので
スクランブルを掛けます」なんていう判断と行為を、NHKという立場が独断で
決め打つまでの能力を有しているのか…という問題と、
総務省由来の「国家管理下」にある放送局が、独自に選り分けられるほどの権限を、
法律の構成上も実際上も、行使出来る通りがあるはずないでしょうよ、って話。

この辺はNHKだけにとどまらず、民間も例外ではない話なんだけれど、
既存電波メディアが、上記のように「国家行政の配下」に収まらねば存立出来ない…
という実態、有り様から考え始めないといけない事なんですよ。

要は…。
本件にある「届け出義務化」を法律構成はもとより、公共放送としての聡明性、
独立性が乏しい状態で敢行しようとすれば、それは事実上の「国営〜国家権限」と
同様の状態を醸し出すことになるわけです。

莫迦の一つ覚えの如く「反日的な放送」がどうだとか、
「観たい番組がない」「観てない」なんていう軽薄な理由は、
この場合一切に渡り「効力は持たない」、理由にもならないのです。

したがって。
NHKも民間も、GHQによって戦後一旦は敷かれた“独立行政区分”の
「電波監理委員会」と同様の配下に置かれないと、この手の義務化議論なんて
本質的に行うべきではない…って話。

逆を言えば、もし本当にNHKが義務化を求めるなら、
独立行政の再確立論までを提示し、「真の公共放送を行う」旨の理屈を掲げ、
国民的な議論にまで波及させる覚悟や信念を持ってから始めるべき話なんですよ。

では、それらの気概や理念を何処かにでも感じさせているか…?
片や国家政府の言いなりで「岩田明子」のような者を平然と押し出し、
政府政権の片棒を担ぐような状態で、あるいは先の「森友報道問題」による
“相澤冬樹記者”の一件、「クロ現」の国谷裕子氏降板劇、
Eテレ「慰安婦番組」への政府介入…

これらを何らも是正出来ないでいる「公共放送」が、
テレビ設置の義務化なんぞ、どの口で言えるのか…と言えばわかりやすいか。

本当に本寸法としての「パブリックメディア」であれるのか、
それがちゃんと担保されている状態なのか…。

ここが一番の核心であって、番組毎の内容がどうのこうのなんぞ、
屁の突っ張りにもならないし、放った所で引き続き「国民への軽視目線」は
一層強くなるばかりでしょう。

国家行政に対する、メディア本分の厳しい批判精神。社会性の希求。
これらが欠如、または瓦解同然のNHKが、おいそれと義務化で庶民から
なけなしのカネを引っ剥がすなんぞ、100年早い…というお話。

そして真の公共放送として胸を張って更に徴収したいなら、
独立した立場を勝ち取ってからにすべきなのですよ。。

■NHKが要望「テレビ設置の届け出義務化」の意味 国民との信頼関係が壊れないか
(弁護士ドットコム - 10月19日 16:52)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=6274155
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