レベルを下げて言うならば・・。
「強力な武器らしき権限を持ち、振る舞ったはいいが、
付随する大きな責任の意識が端からなかったせいで、
後で押し寄せて来た跳ね返りに辟易して来た(責任が取れなくなった)」
ってことでしょうよ。
一言でいえば「みっともない」の極み。
「直接的な生命の問題」と「経済その他の社会機能」・・。
どちらも重要で、且つ両立させないといけないものの、
そのバランス取りは、誰がやっても極めて難しい。
難しいからこそ、前提要件はどちらの重みも十分に理解し、
尚も何れに共通する「人の生き死に」についての深い思慮・・。
それがあって初めてバランス取りを託される政治資質にある・・とされるものの。
しかしそもそもが「大衆庶民の基本的な生活感」や「社会通念」らが
大きく欠如してるため、どちらも結局は「中途半端」で右往左往、
しまいには「自己責任型ロジック」を混ぜ込むことで政府の責任応分を少なくし、
“自分達自身の延命を図るのを優先化する”・・それがこの政権の有りさま。
その一端は当初から既に大きく露呈していたはずだ。
「武漢からのチャーター機」に対する運賃徴収の姿勢。
この時点で「自己責任思考がありあり」だったわけだ。
以後、エンタメ産業への冷遇姿勢をあからさまにし・・。
表面的には産業分野の個別的打撃論に収斂されていたように見えるものの、
エンタメ産業は庶民の「生活文化」と密接に関わっている・・
との基本認識がないために、この時点で
「庶民の文化的生活全般を毀損」する姿を政府は顕にした。
付随して、飲食産業全般に対しての処遇も同様。
徹頭徹尾「下町の庶民生活」には元々関心もなければ、ずっと“卑下”して来たんであり。
象徴的なのは、コロナよりもずっと前にあったじゃないか。
「あんな人達に負けるわけにはいかないんです!!」と、
あろうことか、市民の生存圏ど真ん中の公道・通りで言い放ったわけだ。
既にあの時点で明確に「選民思考」をおおっぴらにし、
“救う者と救わない者”を明確化していくかの如き姿勢を打ち出してたわけだ。
にもかかわらず。西村による
>もう誰も緊急事態宣言などやりたくはない。
>みんなが努力しないとまた同じことになる
こんな言説がいともやすやすと出て来るという始末。
手前らが散々っぱら「国民統制のための法律をよこせ」とやりながら、
いざ振りかざしての結末を前にして、もうやりたくないなんぞとどの口が言うか、だ。
結果論からすれば、これなら最初っから「都道府県別での対応」を、
各々の責任下で行使してた方がずっとマシだったろう。
はっきり言って「ムダで余計な中央行政による混乱」以外の何があろうかだ。
こんな連中が、憲法改正に伴う更に大きな“緊急事態条項”なんぞ
手中にすればどうなるか・・。全てが全て「やったらやりっぱなし」。
お片付けも検証も責任も一切しないのは明々白々。
ある学者が以前言っていたことを思い出す。
「あらゆる事態に対応するため、時として国家統制が必要な場合はある。しかし・・
その時は必ず【解除後に政権は解散する】という条件付きでなければならない」と。
つまり。緊急的な統制を図り、国民主権を制限した折には、
結果の如何にかかわらず、“責任を取る”事とセットじゃなきゃいけないものだ、と。
それでも良い結果だったと判断され、改めてその政府が支持されるなら、
それは改めて「選挙によって再信任を受ける」形でないと、
単なる「独裁政治」でしかなくなるからだ、と。
さて、この論理になぞらえた場合。今の政権はどうか。
先ずもって「結果の如何に関わらず、責任を取る」事自体をする姿勢に1ミリもない。
言うまでもなく「責任というのは、取ればいいというものではない」と公言した者が
国のトップにすがりついてるわけだ。
僅か病原由来の限定的な制限措置すら満足に行使出来ず、
その後始末すら満足に付けられない政権が、これよりも遥かに強大な権限を持ったら
一体全体どうなるか・・。最悪の結果をもたらしても一切の責任を取らず、
下手すりゃ国外逃亡でもしかねないだろう。
>緊急事態宣言の再発令について、政府内には「副作用が大きい」(関係者)と
慎重な意見が強い
副作用??この期に及んで何莫迦なことを・・。
この程度で副作用に及び腰なら、憲法由来の統制権限なんぞ持てるはずがなかろうて。。
■緊急事態宣言、なお慎重=「夜の街」に休業要請検討―政府
(時事通信社 - 07月02日 17:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6142524
ログインしてコメントを確認・投稿する