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2020年06月27日18:13

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ラウンジバーとおでん屋屋台での話法を兼ね備えた紳士。

テレビというメディアが、昔は「大人の為のメディア」というか、時間帯によって
子供と大人の時間を明確により分けられていた気がするのね。

反面ラジオというメディアは、「若者のメディア(拠り所)」だったと思うわけで。
勿論ラジオもまた時間帯や曜日毎で棲み分けはあったんだけど、
それでもテレビ電波に乗らない・乗せられない“若者の世界観”というのを、
ラジオがしっかり補完していた、と。象徴的なのが「深夜放送」だったりする。

いつしかそれが「逆転化」していったように思うんだな。
テレビが総じて「若者迎合志向」に陥り、「大人の領域」が削がれた分は、
ラジオの方にシフトしていった・・・

久米さんのラジオ移行にあった当時の理由背景には、そうした流れを、
テレビメディアにおける“大人領域の欠損傾向”を、早くに嗅ぎ取っての事だった・・
そんな気がしている。

今回の降板劇に、そうした次の「変化」を理由にはしていないけれど。
しかし、片やTBSラジオにおいては先の「デイキャッチ!」終了に観られるような、
大人が大人の思考で、感性で堪能出来るプログラムが終了していくのを観る時・・

久米さん自身が自覚する「老い」という理由の他に、
「ラジオすらも、もう終わったな・・」という、ある種の予感や実感が
何処かにあったのではないか・・とさえ思えて来るのね。
その一端が「クメネット」でもある、と。

アイドルタレントやお笑い芸人等による、ラジオでの“辿々しさ”や“騒々しさ”は、
今や昼夜問わずスピーカーからガヤガヤ響く中で、
大人の感性やトーンで言葉を「紡ぐ」、言葉と言葉の間や起承転結さ・・
身を(耳を)乗り出して、一言一言を逃さずに聞こうとさせる話し手、
パーソナリティは、気づけばもう数えるほどしか居なくなった気がする。
久米さんは、その僅かの内の一人だったのは間違いない。

毒を吐く、辛口で言いたい放題言いまくる・・
なんてのは、お笑い含めて今や多くいるけども、凡そは一方的に、
完全燃焼のスタイルで、ストレス発散的に放出しまくるのが多い中で・・。

久米さんは、必ずや聞き手に「考えさせる間」を挿入し、
尚も余韻を残しつつ、思考を継続させる余地を聞き手に渡して番組を終える。
これを「大人としての余裕」と称するのが正しいのか否か・・

ラジオとリスナーという、凡そ「二人間」の距離にあって、
密着し過ぎず、されど離れ過ぎず・・この絶妙な距離感が紳士的だったと思っている。

社会風刺や批判も、トーンや性質的に決して「居丈高」でも「評論家風情」でもなく。
かといって下品でべらんめいでもなく・・。

「ホテルのラウンジバー」と「ガード下のおでん屋屋台」での会話、その両方を、
これ以上ないベストな配合分量で語りかける。
それが久米さんの最大の魅力であり、特性であったと思う。

そういう「語り手・喋り手」が、姿の見えないラジオから消えるというのは、
テレビから消えるよりも実は「損失が大きい」。
テレビは映像手法でどうにか「間を埋める」ことがかろうじて出来るが、
ラジオは決してそうはいかないからだ。

今週、伊集院光の番組と交互に出ていたのは・・
一つには、久米さんが将来のラジオメディアに期待する一人、として
何処か暗示していたからのような気がするんだけど。

その意図が本当だとしたら、なんとなくわかる気もしながら。
しかし、伊集院もまた“芸人枠”として、その個性の真ん中から抜け出てないし、
まだまだ深夜放送枠の領域からも抜け出てないわけで、
その意味で、久米さんが意とする期待を寄せられるのは少々酷かもしれない。

知性と感性、そしてゆとり・・。
「話す」には、この2つ3つがセットであればあるほど魅力化する。

ラジオは徹頭徹尾「話す」ことだけに特化しているので、誤魔化しが利きにくい。

ちゃんと話せて、尚且つ“大人を惹き付ける”・・。
メディアがどれもこれも総じて「幼稚化」し、伴って出演者も。

気づけば、世の中娯楽も味覚も何もかも「幼稚化」・・。
大人のテイストって、一体全体何処へ行ってしまったんだ・・。

爆発寸前の頃、イレギュラーでもいいから、ひょっこりまた出てくれないかねぇ。。

久米宏、ラジオ最終回も淡々「また、チャンスがありましたら」 『ラジオなんですけど』約14年の歴史に幕
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=6136378
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