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2019年09月20日14:53

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「フェールセーフ概念」がまるでない、致命的な司法裁定。

昨日から報道の幾つかを観た後、出来れば判決文を読み込んでみたいと思ったものの、
現時点で詳細がアップされてない様子。

なので本当はそれを読んだ上で言及したかったが、取り急ぎ知れる範囲内で感じた
違和感等を羅列すると・・。

幾つかにもあるけれど、一番違和感を感じたのは、本件の争点として、
訴状にある入院患者さんの死亡事象と、原発事故との関連性において、
事案の「前提領域」にある
「原発事故→直接的要因とされる、津波に対する予見性の有無」の所で
終始されている点。

事案の構造としては、
1.地震発生→ 2.津波発生→ 3.津波に伴う非常用電源の流出による冷却機能の損失→
4.水素爆発による放射線物質の流出→ 5.近隣の住民避難→ 6.避難途中での死亡事案発生

概ねこんな流れかと。

主だった訴訟での争点は、原発事故が起きた直接的要因である「津波」に対して、
あの規模のものを事前に予見出来たか否かで、これが出来ていたならば、
次にそのための対策が何処まで可能だったか否か・・
対策が相応に出来ていたなら事故そのものが発生せず、次に避難行為をする必要が
なくなり、よって入院患者さんの死亡事案が発生しなかった・・
という原告側の論理構成と。

事故のメカニズムから純粋になぞる限り、順序的に上の1ないし、2〜3の領域における
検討と精査で大部分を占めている印象。

しかし・・。
患者さんの死亡に至った近辺領域は、上で言う5〜6の段階にある。
よって、ここで行われた避難行為の中身が適正だったのか否か、
避難における手順、プロセスが適正だったのか否か、事故を想定した避難態勢や準備が
どれほど用意されていたのか否か等・・

この領域での検討・審議も必要で、その点では前段の「事故を防げたか否か」と、
「事故は不幸にして起きたとしても、最悪の死亡ケースは防げたのか否か」
の2段階で構成されているものであるはず。
それに鑑みれば、本訴訟の司法による検討と配分からすると、大半が前段の
「原発事故の前提条件審議で止まっている」かのような外形に見える。

これを、一般的な文言に変換すると、原発事故との“直接要因(直接因果関係)”と
“間接的要因(間接的因果関係)”といった所か。

と考えると、5〜6の検討に際しては、病院側による細かな搬送行為の中身まで
一つ一つ丁寧に精査する必要があり、それについては医療分野での是非検討までを
要するので、労力も難度も一気に上がると思われる。
しかしこの解明や精査は、後の対策にとって相当の意義や価値を生むものだからして、
事案の社会的影響の大きさに鑑みれば、司法としても行う責務は相当あるはず。

しかし、実際の「予見された形跡は認められる。が、だからといって原発を
停止することは、社会的要求の現実からして出来るものではなかった」旨の司法論旨は、
事故を率直純粋に解明せず、その上で尚も運用者における責任範囲を明確にしないまま、
一元的に刑事罰の処遇に「該当させるかさせないか」に尽力が注がれているように
見えて仕方がないわけで。

もしも、上の2〜3の領域でまずまず瑕疵が見受けられなかったとして、
5〜6の領域に明確な欠陥があったなら・・
その内容によっては、まさに東電側の責任を超越、病院や地方行政、または国政の
何れかに何らかの瑕疵を見出すことが可能になる。
あるいは、5〜6の領域であったとしても、尚東電側の責任範疇に抵触することもある。
詰まる所「責任応分比率」として弾き出し、求刑数値に反映されるべきものだろう。
がしかし、この判決内容は「0か100か」の二元論になってしまっている。

安全工学の基本的な考え方は、「事故は起こり得るもの」という大前提を置き、
その上で「如何に最小で食い止めるか、または最大前のどの領域で食い止めるか」
の方法論と技術論におよその本分がある。いわゆる「フェールセーフ」だ。

とした時。本訴訟による司法採決から滲み出て来るものには、安全工学の概念とは
まるでかけ離れた、単なる「責任所在や処遇」しかなく、
勘案にあたっての前提条件にある「事故のメカニズム」についての基本的な検討が
なおざりにされている・・という「致命的な欠陥」が歴然とある。

何十メートルの津波までを予見出来なかったとしても、津波のみならず、
あらゆる事故が起きてしまうことを粗方想定し、避難誘導態勢をきちんと敷き、
それを自治体や住民サイドが何処まで使いこなせるかが、フェールセーフの鍵となる。

司法採決にはこの「フェールセーフ概念」が微塵もない。
これさえきちんと踏まえられていれば、東電側の責任範囲については、原告側が
望むものまで到達しなかったとしても、何割かの責任応分が課せられることで、
今後に向けて今までよりも明確な“ガイダンス”となり得た可能性がある。

原発事故後、政府を始めとして実に多くの専門機関や識者らによって、
原発システムの欠陥性や不適切性らの数々が暴かれたわけで。
「事故はそもそも起こらないのが原発だ」との著しい、不健全な固定概念からようやく
脱しつつ、前へ進みつつある段階にあって、本件の司法判断はそれらから背を向け、
スタート時点のゼロに振り戻したかのような、実に愚かしくも稚拙な裁定と言える。

このことは、日本国内で今も提起されている数多くの訴訟案件や、
国政政策への影響のみならず、国際原子力の場面にも大きな影響を及ぼす、
相当重大な内容じゃないか、と。

十中八九、控訴の方向となるだろうが、ここはしっかり行うべきだろう。

■原発事故、なぜ責任問えぬ 東電元トップ無罪判決に怒り
(朝日新聞デジタル - 09月19日 23:24)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5795054
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