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2019年08月03日21:32

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2つの違和感。

これ、どうも違和感ありありというか、非常に危険な有りさまだと思うが。
この件については、およそ「2つの違和感」がある。

【1つ目】
先ず前提として、当事故を起こしたドライバーに対する、
初動捜査からの経緯に疑念が大いに表出したわけだけど。
それは一つの問題としてきちんと考慮する必要があるが、
他方で現時点では、確か「送検の上立件、刑事訴訟へ」という流れなはず。

だとすると、現在そのプロセスのどの段階かはわからないが、
基本的に「容疑者に対する罪を一方的に課したい」側にある検察に対し、
犠牲者遺族側と庶民感情を強くベースにした「厳罰訴求」行為は、
いわゆる“社会的影響の大きさ”なる抽象的で曖昧性を従えたまま、
司法の場にもスライドさせて、半ば「勢いのまま断罪させる」空気を醸成させるわけで、
表現は正しくないが「私刑の拡大版」のような外形を呈する。

つまり司法の場に上る・上げる前に、検察には最大の罪状で立件せよ・・
という訴求であり、順序として本来おかしい。

本来なら、何よりも「きちんと捜査をせよ」が遺族や庶民による求めであるべきだろう。
それ即ち、事故発生当時にあった、当該高齢ドライバーに対する疑念を中心にしたもの。
そこの精査検討が充分じゃないのに、あるいは捜査が不十分だろうとする疑念が
残ったままにしながら、その捜査機関に対して「厳罰を」なんて求めた所で
的外れじゃないのか!?という。

その点で言うならば、純然な厳罰訴求は、訴訟による採決となる司法に対して
向けるべきものであって、疑念状態が残ったままの検察依存〜過剰期待は、
広範の事案に対しても「検察機関に対するフリーハンド/暴走」を増長させる
要因となり、日本の場合、もうとっくに与えてしまっているのが実態にある。
逆を言えば、フリーハンド状態だったからこそ、当該ドライバーに対する
「元役人への処遇疑念」が表出したはずだろう。

あるいは、純然で過度な期待が、森友案件にて本来処罰されねばならない役人らを
無罪放免にし、行政指導で終わるはずの籠池夫妻を重罪扱いで翻弄、
庶民感情や法倫理らをことごとく跳ね除けたのが、かくいう検察じゃないか。
それ考えれば、下手すれば「同じ轍を踏む恐れ」すら内包しているとも言える。

したがって、純粋な厳罰感情〜正しい法処罰の求めは「検察では不適当」。
あくまで司法の場に移ってから、または一審採決が出てから、その結果に応じて
訴求するものでなきゃならない。その上で受容出来なければ控訴を要求し、
あるいは民事訴訟への活路というのが有りていであって、
当案件における現行の事案状態から言って、今の段階から社会運動を起こすなんてのは、
ある側面で「法に対する不健全な挑戦行為」になりかねない。

【2つ目】
発起人となっている遺族当事者側の心情理由は痛いほどよく分かるが、
主旨/本旨と一致していないばかりか、非常に「危険」。
つまり、悲しみや怒りそのものにある正当性が、領域限度一杯を超えて
「怨念や恨み」だけが先鋭化し、それを基にして「感情主体の法論理〜執行を求める」
という、実に不健全な社会を招き入れる恐れが多分にある。

この論調を全面的に正当化させれば、実質的な「感情論社会の増長」に陥る。
要は、その時々の社会感情論で法規範は振れ幅を大きくしてしまい、
法にある理念や概念らを骨抜きにしてしまいかねないからだ。
そんな社会にしたいのか!?が、この件で問われることになるんであり。

何よりも・・。当遺族による

>「危険な運転は大切な命を奪ってしまうということを、
  世の中の人たちが考えるきっかけになれば」

これ。憤りや混乱する心情そのものは全面的に受容出来るが、厳罰に処されることが
世の中に対する事故への啓蒙として効果的となるわけでもなければ、
考えるきっかけとして有効機能すると考えるのは、残念ながら間違いだ。

そもそも、当事故のドライバーも、昨今激増していると言われる高齢者事故も
(コレ自体も実は不正確)、「危険運転の認識もなければ、意図も作為もない“不幸”」
であって、俗に言う「飲酒運転事故」のような性質ではないわけだから、
事故を起こした後の処遇(処罰)が厳しければ事故は減る(なくなる)のではない。

何より、このような交通事故にしても、鉄道や航空機事故にしても、労働事故にしても、
犠牲者遺族側から発せられる殆どは「二度とこのような悲劇を繰り返さぬように・・」
が中心にある。つまり、処罰は考えられる幾つかの内「一つの結果処遇」でしかなく、
厳罰化が事故を防ぐ為の最も効果的な対策では何らもないってこと。

厳罰処遇は、単に遺族や社会の中にある一時の感情/溜飲を下げるだけで、
何の実質効果もなければそれで遺族や社会がスッキリ納得、解決するわけじゃ全く無い。
事実として、「これで我々や犠牲者が喜べるわけでも忘れられるわけでもない・・」
にあるように、厳罰によって犠牲者が蘇るわけでもないし、遺族が元通りに
なれるわけでもなく、単に「一つの区切りにする」だけの話。

無論、それが無意味で必要がない・・とまでは言わないが、悲惨な事故や悲劇が
繰り返されないように、自分達と同じような遺族が増えないよう、どうすればいいのか、
その具体的な方法論〜技術論〜システム設計について考えるのが、社会や行政等による
本来の一番重要な事柄だろう。

この遺族らは、犠牲となったのが幼き子供や愛妻だったりすること、
発生からまだ時間があまり経っていないことなどが重なり、中々客観的な視点や
考察が出来ないのも無理はないだろう。だからこそ、周囲がきちんと整理し、
正しく導いてあげることが大事で、心理を慮るがあまり闇雲に同調することが、
決して総体的な良策にはならないってことを、感情論だけで一緒になって言い放つ者は、
よくよく考える必要があろう。。

■池袋暴走、遺族が厳罰求め署名集め 妻娘と通った公園で
(朝日新聞デジタル - 08月03日 12:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5734021
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