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2019年05月02日01:25

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本来の元号改変時は「厳かにする」のではなかったのか?

先日の新宿駅案件にて大方のことは書いたが、少し別な視点で改めて。

今から30年ほど前、昭和天皇の崩御が突然起きた。
正確には突然でなく、その3ヶ月ほど前から重篤となったため、国も世間も
暗黙の“覚悟”とそのための時間的余地はそれなりにあり、それが日に日に増していった。
が、“もう直ぐ亡くなるかのような”有り様を、メディアや世間が表立って表すことは
自ずと出来ず、ざっくり“早く落ち着き命をとりとめて・・”かのような空気が
概ね覆っていたものの、“その日”が刻々と迫る、または目前にある・・
との感覚は誰しもが抱いていたような状態だったろうか。

結局、年をまたいで・・つまりは“年末年始をやり過ごして”1月7日早朝に崩御発表。
この間の約3ヶ月間、世間は広く「自粛の状態」を強いれられた。
いや、崩御から暫く後は新たな「自粛期間」を相当程度、概ね「大喪の礼」が
終わるまではずっと自粛期間があったわけだ。

このことを、単に記憶として微かでも覚えているのは概ね「今の40代前後から上」
であり、もっと正確に言えばそれなりに記憶もしっかりと刻まれ、また行動様式的にも
社会の一角に参入しているとする当時の18歳前後・・とすると、
大体「現在45歳ぐらいから上」の世代じゃないと、少なくとも
「元号の切り替え〜天皇制のあり方」を身をもって対比することは
なかなか難しいだろう。

ということを前提にした時。正確な歴史史実は別にせよ、直近の100年やそこらを
ベースにすると、「元号の改変=天皇の崩御」がないとあり得ないことは
言うまでもなく、今回のような事例は“近代史実”として初めてと言っても
差し支えがないし、昭和から平成の直近でもそうであったように、
現在生きている圧倒的に多くの国民の中の、きちんとした記憶を持つ世代にとって
元号の改変は「天皇の死(崩御)」という「悼み」が主体の行事なんであり。

逆に言えば、上記のように現在40半ば以下の世代は、
たとえ昭和生まれであったとしても、リアリティを持って元号改変を体験したのは
今回が初めて・・といっていいはずで、記事にある主体の「祝」の感覚は本来的に
「不適正」なんだな。無論、今回は事情が異なるので「悼み」の必要はないが、
反対に、では「祝賀」・・即ち国民こぞってお祝いムードで華やぐ・・というのも、
上の世代との感覚差を含めて“違和感”がないまぜになっていて当然なんであり。

昭和天皇の崩御当時・・自身は既に社会人として働いていた。
年前の秋口から続く自粛ムードを超えて正月明け早々、
初めての「元号切り替え」を目の当たりに。1月7日なので、仕事始めから僅かだ。

会社に掛かってきた相手先の電話に、思わずつい癖で
「あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします」と言ったら、
事務所内にいる当時の社長から「君、その対応は不謹慎、駄目だよ!」
と一喝されたことをよく覚えている。まだ社会人として青二才の範疇だった自分は、
いわゆる「世間~社会の初常識」というのを目の当たりにしたわけだ。

まぁ、天皇制のある国に生まれ、社会の構成員になった自分としても、
初めての出来事を前にして「これがデフォルト」なんだろうな・・というのと、
反対に「何処かしっくり来ない違和感」みたいなものがずっと残ったわけで。

世間はというと、街のネオンは直近でのあの「3.11」当時のように暗く消され、
パチンコ屋のネオンはおろか、店内照明の半分近くが消され、BGMも流れず。
他の商業施設も同様で、メディアも崩御から一斉に厳粛で異様な番組構成で続き、
娯楽関連の音楽や映像の多くが到る所からかなり消えた。

暫くの間、大声で笑うことも、歌うことも、騒ぐことも・・何もかも
まともに出来ない日々が続いたんである。それは元号が平成になってからも暫くだ。
ここに、「華やいだ祝いの空気」なんぞ微塵もないんである。
それぐらい元号の切り替わりは「厳かなもの」という認識、肌感覚があるわだ。

自身に顧みれば。就いていた仕事が「文化事業」。
この厳粛な出来事に際し、言ってみれば一番「自粛せざるを得ないかのような」
暗黙の要請感に推されたわけで。さてどうするか。業界は随分と“揺れた”。
崩御から直近の催事関連の多くが「中止や延期」を余儀なくされた。
別段そんな要請が何処からかあったわけじゃない。が、そうせざるを得ない、
まさに昨今用いられる「見えない同調圧力」が何処からかあったからだ。

この時既に強い違和感を、現代社会に生きる者として、社会の構成員の1人として
強く抱いたのだ。時はバブル全盛当時。経済主観で世間が周り、近代社会真っ只中。
そこへ来て突然自粛の嵐となり、世の中の機能の多くが「停止、回転速度を遅くした」。

この“前時代感”たるや。確かに諸外国の、王室制国家辺りを観ても、似通った様相は
観られるし、それが「国の有り様の一つ」でもあろう。喪に服す・・
という行為が憚れる必要などないことに、特段の異論はないし、出来る限り
そう行って然るべきでもあろう。しかしだ。他方では民主国家として、先進国家として、
国際社会の一国家として機能している時・・。

一律に、国の空気や風情、あるいは“習慣性”として右へ倣う行為や様相は、
民主主義や自由主義の有り体からすれば、相矛盾するものが歴然とある。
ゆえに、「右へ倣え」には限界や限度がある。

とすれば、だ・・。
この度は「天皇の死=崩御=追悼」ではないわけだから、良識としてのマナー・・
即ち「お祝いの儀礼心」なんぞ必要が一層ないんであり。
無論、そうしたい者はすればいい。個人の自由として。皇居でも何処でも
行ってやればいい。だが、それを国民に強いる理由は「およそない」。

従って、記事にある違和感の中の「強制感」に異を呈することも、
その旨表明することも、れっきとした正当行為であって、その根幹にある
「天皇制の反対」を表すことも同じだ。これを機に考え直す、考えてみる・・
それを掲げることは実に「立派な行為」であり、思考停止し右へ倣えするより
遥かに「能動的で主体的な人間のあり方」に他ならないわけだ。

考えてみるがいい。そもそも今回の元号改変に辺り、この日を勝手に休日にしたのは
誰なんだ?しかも、GWの真っ只中にあえて「恣意的、計画的に」定めたのは誰だ?
何より重要なことは、この日は祝日ではなく「休日扱い」なのだ。

「祝うこと」を目的としていない。いや・・仮に祝うことを念頭に置いてるとしても、
GWのど真ん中に設定し、大型連休になるように、経済効果を目的にしたのは誰だ?

祝うことへの反対者を咎めるなら、海外旅行へ出向いている連中を真っ先に批判しろ。
レジャーで遊んでる連中を糾弾しろ。彼らは別段祝ってなんかいないぞ?
この日を利用して休んで遊んでるわけだ。彼らは許されるのか?
だったらこのデモ参加者も同じだろうよ。寧ろ、意思表明をして偉いぐらいだろうが。

ちぃとはデモ参加者の彼らを見習い給えよ。思考停止してる諸君らは。。

■祝福ムード一色に異議も=銀座で天皇制反対デモ−東京
(時事通信社 - 05月01日 20:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5604132
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