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2018年11月23日04:28

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AIにおける倫理基準の設定考察、そこから見えてくる国家間の違いと日本の特性。

先だって、ちょっと興味深い話題が。

英国の科学誌「ネイチャー」に掲載された、マサチューセッツ工科大学の
研究チームに拠る、AI搭載車の倫理的基準を構築するための、世界中から集めた
アンケート結果と、そこから見えて来る各国の国民性や文化的背景の違いについて・・
というもの。

究極の選択に用いられる“トロッコ問題”の自動車版という感じの設問で、
幾つかの設定を施しつつ、横断歩道を渡っている主に2つの事例に対し、
自動運転車はどちらを優先して保護すべきか(逆にどちらを犠牲にすべきか)の問い。

主だっての設問は、事故を避けられないとした時。
・青信号で渡る高齢者
・赤信号で渡る若者

のように、合法的に渡っている歩行者とその逆、または歩行者の分類・・
即ちそこに男性か女性、子供か老人、地位のある人、人間かペット・・
等などの設定が施されているという。

設問の詳細と分析結果は英文で、且つ一言で結論付けるには少々難があるため
明確に表すことは難しいのだけども、これらのアンケートから、
国や文化的違いによって分かれて来ることが如実になった、とのこと。

関連の詳細記事がこちら↓
https://bit.ly/2PSio0M

記事にあるように、欧米、アジア、中南米のおよそ3ブロックで見解が異なるという。
ざっくり言えば「個人主義か集団主義か」が、お国柄によって違いが出ると。

そして肝心の日本。象徴的なのは、青信号で渡る歩行者を優先保護し、
赤信号で渡る者は保護しない(優先順位は下)という特性が最も顕著に出たとのこと。
当然ながら、何れの場合も渡っている人の属性やペットであるか否かより、
合法的に渡っている方を無条件に保護し、逆の場合はそこに誰がいようと関係なし・・
ということに。

また、OECD加盟国に特化すると、助かる「人数の大小」よりも法遵守する側を選択し、
加盟国中最下位が日本とのこと。また子供か老人かは老人を・・
のような傾向になるという。

この辺り、昨今の「幼稚園騒音問題」や、公衆における子供の泣き声問題にも共通、
総体的に「大人社会が子供に優しくない」状態を反映していると言えるかも。

因みにアメリカや欧州は法遵守の優先度が下位で、多くの人数が助かる方を選び、
何れかの犠牲を選択する設問に対しては、とにかく止まることを優先し、
または壁面や歩道に乗り上げてでも大人数の犠牲にならない方を選択する・・
という傾向にあるようで。

歴史的に、立憲主義や法論理について最も重んじる欧米諸国が、いざという時は
法を超越してまでも人を守る意識が強いことを示唆していると言える。
法の根幹にある様々な権利・・つまり「人権」は普遍的であるという絶対認識が
あることを指し示している、と。

他方、発展途上国や経済格差の激しい国などは、社会的地位のある人や女性を・・
つまりは“強者”の論理で弱者を、あるいは弱者を救える能力のある属性を保護する・・
という背景が見えて来るという。

AIに拠る倫理基準を構築する時、これだけ世界各国で差異がある以上、
一律に設定することが相当困難であるのと同時に、その差異はどうやって
埋められるのか、または埋めるためには前提に何が必要なのか、充分議論や精査を
する必要がある・・ということが、膨大なアンケート結果から浮上したと言える。

この「個人主義と集団主義」について、社会学者の宮台真司氏は、
「個人主義と国家主義(権威主義)」の違いと言った方がより適正だろうという。

3つの分類上に位置する日本が、中国や韓国、あるいはカンボジア等と
ほぼ同類の傾向にあるということは、単に地理的範囲内に共通している・・
というのではなく、嫌韓や嫌中として卑下しつつ、それらの国よりも
数段上を行っていると疑わずにいながら、調査結果から純粋になぞっても、
実は中国や韓国らとさほど変わらない国民性にあり、国家主義的な国民の様相は
中国らと変わらない・・というもの。

また、AI考察における「命の優先度」を考える時、つい先頃の「安田純平氏」に拠る
自己責任風情にある日本の特長をもここに透かし見ることが出来る・・
と宮台氏は指摘する。つまり、合法的に遵守する人間を何より優先する・・
換言すれば5人の非遵守者よりも、1人の遵守者を保護し、それには子供だろうが
老人だろうが、男性だろうが女性だろうが・・は無関係。

いわゆる“優性思想”ともいうべきか。行儀の良い者は社会から包摂される資格を有し、
そうでない者は排除されても仕方がないと。権力者の内面に現れる時々の悪性を、
一般個人が同等に持つという何とも薄ら寒い有り様。

これはもう「コミュニティ=共同体」の体を成しておらず、“強者/弱者”の二極構図、
あるいは“勝者/敗者”の構図であり、本来の意味での「集団性」とは乖離する。
これをそのままAIに移植するなら、自動的に弱者と敗者、または無法者は
抹殺されることを意味すると。

そんな有りさまを「恐ろしい」としながら、一方では安田氏のような者は
積極的に救うべきじゃないという、何とも相矛盾した論理・・。

これを単に「ムラ社会」と評するのは、些か語弊もあり正確性を持ち得ないだろう。
本来の日本的なムラ社会の中にあったのは、「情け=人情」だったはずだ。
そこに「損得勘定」は特段になく、規律という厳格性の一方に
「許し(包摂性)」が対になって存在していたはずである。

この事に対し「余裕がなくなった現代人・・」とするのははっきり言って「逃げ口上」。
半分近くは間違いではないものの、半分以上は
「余裕が無くなったのでやらなくてもいいでしょ?」という暗黙の訴求だ。

宮台氏は続けて言う。直近の外国人労働制度に付随する「移民制度」。
歪な状態にある日本の「ムラ社会」に、本件AIの背景にある多様な価値観を持つ人種を
ランダムに受け入れるなら、必ずやあらゆる弊害が多発することは必至だと。

その弊害が従来日本人と、外国人各種がぶつかり合い、やがて鬱積が各所で溜まりゆく。
賃金だとか労働環境だとか、日本人の雇用に影響を及ぼすとかそんな狭い次元じゃなく、
「生き死に」という根源的な部分で必ずや社会の亀裂を生じさせ、暴発を招く。

これは何も入って来た外国人に拠る、いわゆる「治安」なんて限定的なことじゃなく、
日本人自体が暴発する危険性をもたらす。

受け入れるなら賃金や労働環境の公平性を・・といった上辺のことなんかより、
もっと前段階における「人権」や伴う「倫理性」・・即ち国際的な倫理観を日本人が、
日本の国が先に整備して初めて受け入れ可能となるのであって、
その教訓こそは歴史的にみて先代の欧州諸国、あるいは米国辺りに学ぶべきだろう。

それになしにAI技術の普及も移民政策も始まらない。。
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