近年事ある毎に繰り返される自己責任論について、世の中見回せば識者や一般にも
数多の考察があるので今更感はあるものの・・。
しかしその都度ちゃんと提起していかねば益々社会が荒廃していくという危機感と、
他方で自身への戒めだったり立ち返る必要はあるだろう・・との考えから、
本事案を前に改めて考察の上、備忘録として纏め記しておこうと思う。
昨今“軽々に”引用される自己責任論。
よく考えてみれば、昔からこれほどまでに使われていた形跡も特段になければ、
およそ今存命にある人々の時代背景から追っても、脈々と用いられて来た理論でもなく、
こんな単語を掲げて諭す・・なんて場面は殆どなかったといっていい。
では一体いつ頃からなのか。よく取り沙汰されるのは、2000年代初めに起きた
「イラク邦人人質事件」がきっかけだ・・との見解が少なくない。
確かに、象徴的な出来事であり符合する面は、今回の安田氏に拠る案件と
場面は似ているため、違和感なく多くが感じる所とは思う。
がしかし。その以前から混沌とした紛争地帯にて命を落とされたり、
同様の危険に見舞われたケースは大小多くあったわけで、
ではその際今のような自己責任論が湧いたかといえば全くそうではない。
この差異は一体何かと随分考えて来たが、ある識者による研究と、
追従して各種調べていくうちに「やはり・・」と辿り着いたものが。
●自己責任論の発生起源は「経済由来」
その理由根源は、バブル崩壊から激変しゆく過程に派生した、
「金融緩和」〜“金融商品”に付随する、「自己責任原則」という要件を引用拡大、
それがあらゆる項目・分類とマッチされていった・・という見方だ。
この「自己責任原則」はというと、株投資等をやっている人なら「常識」として
認識しているだろうが、改めて引用すれば、
【有価証券等の取引で損失を被ったとしても、投資家が自ら判断して
その取引を行った限りは、その損失を自ら負担するという原則】
この背景には「ハイリターン〜ハイリスク」を基軸にし、高いリスクにより
個人が損失を被ったとしても、売った側はそこまで負担しない・・
という“免責・特約事項”である。
このような商品や個人型投資の拡大普及は、バブル崩壊後における市場開放に絡んだ
金融緩和策に政治が舵を切ったことに拠るもので、それ以前の日本経済~社会構造には
およそなかったといっていい概念性だ。
その概念や経済志向が進みゆく過程で件の「人質事件」が発生。
時の権力者や市場開放を肯定・支持する層・・即ち記事にある「新自由主義」思想を
肯定する層が、自己責任原則を流用し、社会理論化した・・というもの。
そうすると、社会背景の変貌らと当事件の時期とがぴったり符合する。
噛み砕けば「自分はハイリスクとその責任を負って株なり何なりやってるのに、
何でコイツらはハイリスクの責任を負わないんだ?それはズルいじゃないか・・」と。
これを件のジャーナリストに換言すれば、「拘束されたことは自身による
“ビジネスの失敗”なのに、何で俺の税金で補填されるんだ?ズルいだろう」という。
この状態を俗っぽく言えば「妬み」。自身の内面にある感情(憤り)・・。
即ち昨今の自己責任論とは、金融緩和に端を発した末の「感情論」である。
その雑言的な感情を理論化するのに、金融由来の自己責任原則を拝借していると。
しかし。この金融原則を一般社会に広く適用するとあらゆる所で弊害となるのは明白で、
何よりもその有り様は「民主主義国家」の有り体と大きく矛盾させ、
ひいては憲法以下のあらゆる法規範、その多くを不成立化させてしまう。
ところが、新自由主義界隈からの自己責任論者らは、この矛盾に対する明確な論理は
何らも持ち得ておらず、目の前の短期的利益性・・近視眼的な論旨にしかない。
そして「負けたら終わりな」博打打ちと同じ性質にあるゆえに、拘束された者は
「その時点で終わりだろう」との結論に至る。
だからこそ、安田氏のように「何度も失敗してるのに復活すること」が許せないのだ。
とりわけ「税」という公金で復活させてもらうことが許せないのだ。
●似非愛国主観と、伝統的な道徳規範にある非民主性
一方・・。
この自己責任原則に“似非愛国層”が「相乗り」、日常社会に溜まる鬱憤を晴らしている、
というのがもう一つの側面だ。この原則を使えば、あらゆる自身の感情浄化と、
この場合だと“マスゴミ”とし敵視することへの強力な武器になる、と思うからだ。
更に。似非愛国にある「道徳」や「規範」なるものを、日本の伝統的な概念~社会性だ、
として理論形成している。では本当にそんな道徳や規範が古くからあったのか・・
それらを考えるに「責任」の意味について考えてみたい。
ただこれを明確とするには相当難しい。辞書から引用し単純化する限りは、
「自分のした事の結果について責めを負うこと。」 となる。
ではその「責め」とは何か。先ず間違いないのは、
自己の行動や結果を「受容する(受け入れる)」ということだろう。
つまり結果を“他者の責任”にしないこと。したがって、自分で受容・認めた時点で
「責任を負った」ことになる。しかしこれだけで満足しない、許さない・・
というのが時として社会に発生する。
これを明確にする上で代表的なのは、法律を基点にした「民事・刑事責任」がある。
この場合賠償や刑事罰といった「数的・質量的」目安により司法が裁定を下すので、
内容を社会の多くが納得するか否かは別にして、一応具現化される。
一方で本事案のような場合は、明確な法律違反には該当しないので、
責任を具現化するのは事実上不可能にある。
したがって残るは「道義的責任」や「社会的責任」等の観点に向く。
とすれば、どういう責任の取り方が妥当なのかは、定量や定式が明確にないので
尚更至難の業である。
他方「道義的・社会的責任」は、日本の伝統としてどのようなものとして形成、
継続しているのか・・。一般的に「他者や世間に迷惑をかけず、人として真っ当に・・」
のような、ざっくりとした概念といっていい。
この内容自体に特段の問題性は見えず、人々により構成される社会にあって、
協調しゆくには至極当然といっても差し支えはない。よって、日本の歴史性を
遠巻きに眺めるだけでも、この風潮は概ね継続し今にある、と言える。
またよく目を凝らしてみると、ここには
「皆均一・平均であれ。枠を超えた、足を踏み外したものは社会から弾き出されるぞ」
というものと対になっていることが伺え、全体的に観れば昔からこの教えや
伴う規範性の基になって来たと言える。その象徴が「右へ倣え」であり、
教育現場等にこの教えがあったのは事実だろう。
しかし、これだと実は「民主主義の理念」や「憲法由来の法規範」と相矛盾する。
粗雑に言えば、日本の伝統性なるものは何処か「全体主義」や「権威主義」の
様相が強めにある・・という。少なくとも日本の国も国民も、欧米由来とする
今の民主主義国家体制を受け入れ、維持発展することに反対するものはおらず、
今後も堅持することを望んでいる、と解される。だとすると「右へ倣え」は
民主主義にあるものと矛盾が生ずる。
ところが中には、「日本型民主主義」、または「日本の伝統性を重んじた民主主義を」
なる物言いをする向きもある。昨今の“日本会議”にみられる、強い思想を持った者は
別にして、ノンポリの一般層にまで「日本型」なるものに同調する向きさえある。
だとするなら、明らかに現在の民主主義とは相反するのであり、多くを享受し
肯定している数多の「自由・権利」を薄弱化することになる。
果たしてそれを多くが受容するだろうか?
●道義的責任と社会的責任はどう取るのか
安田氏の件に特化すると、「お騒がせ・ご心配をおかけしたこと」として関係各位に
謝罪した段階で、「道義的責任」は一応果たしたことになる。人の有り様として、
結果がもたらしたことを認めつつ謝罪の意を表すのだから。
とすると、あとは「社会的責任」になる。ここが実は一番曖昧で明確な定義、
フォーマットがない。なので「はっきり取りようがない」。
一方で、上記の“日本型”社会性(規範性)を持ち出し、社会的責任を取ろうとすれば、
もう二度と同じ場所に行かないとか、危険と思われる一切の行為や、
少しの可能性からも回避し、慎ましやかにおとなしくし、ひっそりと生きるしかない。
明確な法違反にも及ばないのに、“社会責任”の名目により、社会によって
拘束されるものがないばかりか、社会という「個人の集合体」=集団に、
一個人への制裁や抑圧すべき権限はない。
したがって、自己の責任はあくまでも「自己に帰結すべき」ことであって、
「他者が責任を請う」ものではなく、他者が当人に対して「自己責任を取れ」・・
などは以ての外なのである。
尚、国民個人という単位に拠る「責任範疇」を超えた時、国家が擁護することは
民主主義国家として基本中の基本であり、今回の場合だと、日本では内閣法らを
基点にした法律にて「本人の責任有無に関係なく」一律に幇助する義務を負っている。
つまり。国は明確に「個人の責任有無を問わない」としているのだから、
助ける行為自体はおろか、掛かる負担も同様に・・即ち
「実質的な責任(個人の範囲を超えた分)は国が取る」ということになる。
したがって、当人への自己責任を他者が、具体性を示して指図・求めるなどの
権限がないどころか、超越して社会が求めるならば、即ち民主主義体制の否定を
意味するのである。それがどうしても受け入れられないなら、批判を含めた一切は
「国に対して」行うのが筋である。その権利は国民にあるのだから。
●自己責任論、もう一つの背景には「損得勘定」がある
結局、前段に記した「経済由来」に拠る自己責任論は、感情論に付随して
「損得勘定」が根幹にあり、損得を基に批判しているとも言える。
その象徴的なフレーズに「身代金」がある。“こんな奴に多額の身代金を払う価値はない”
といったものに代表される。これ即ち「損得勘定」。金融感覚にある「計算」だ。
換言すれば「投資に見合うか否か」でもある。
その観点で言うならば、数億円で人の命が救われたなら「得」という計算すら成立する。
助かったことで以後当人はあらゆる生産を行えるのだから、貴重な労働力でもあり、
また消費者としても機能するからだ。問題は、生き延びれたとしても掛けた金額分を
還元出来るのか!?という計算で鑑みられた時・・。
「当人だけ観れば」確かに還元には届かないだろう。
だが、実質のマイナス分が出たとしても、国や社会が保証する・・
即ち「プライスレスな価値」を尊重することで、別な国民が安心や信頼感を持ち、
国を多くの国民が愛し、支え発展・充実するなら、長い目で観れば「得」なのである。
“日本の道徳や伝統性”なるものを引き合いにするなら、「損して得取れ」こそ、
元来にあった経済の中の考え方ではなかったか。
つまり、助けることは(幇助すること)、「先行投資(サービス)」なのであって、
投資した分はいずれ誰かに返って来るのである。誰かが同じような窮地にあった時、
同じく救われることを意味する。何より、金融主観にある者にも当然該当するのだ。
よって「ヤツだけがズルい」のではなく、「いつか自分も得する(保証される)」
のであって、そのための“積み立て”なんである。
その「長い目」で見れない、計算出来ないとすれば、それはやはり金融商品が
短いサイクルで乱高下することや、短期損益の繰り返しに目や頭が
固着されていることに起因している・・と言えよう。
以上のことを踏まえれば、今の自己責任論なるものを即刻頭から切り離し、
新たに正しく設定し直さなければ、いつかの自分がその時困るのである。。
■安田純平氏への非難やまず…同胞の解放を“喜ばない”日本の自己責任論の異常さ――古谷経衡
(日刊SPA! - 11月01日 08:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=5356788
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