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2018年08月09日03:16

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時代的な要件が偶発的に合っただけ。。

まぁ・・月並みではあるけども、やはり根源は戦後米国の統治下にあって、
米国文化が大量に押し寄せ、音楽もまたその影響を多分に受けた・・
その末から波及していった、ある種の「時代・歴史的現象」をずっと継承、
昇華して来た、って所に行き着く話ではありますわね。

if論を言っても意味はないけれど、もし米国ではなくフランス統治下だったなら、
音楽もまたフランスの影響をそれなりに受けていた・・
なんてことも言えるわけで、じゃあそのフランスなり英語圏以外の国による音楽、
その歌詞がどうなのかといえば、母国語と英語が日本のように混ざり合って・・
っていう表立った現象があるわけでもなく。

つまり、フランス語やポルトガル語等が、母音だの子音だのの関係性で
ロックやポップスとして馴染まず、結果的に日本のような経緯を踏んでるかといえば、
決してそうではないわけでね・・

時代背景を根幹にして、早いうちから自身が洋楽中心にのめり込んで来た
経緯から考えるに、およそ音楽というのは文字通り「音を楽しむ」ことの基本に
立ち返らせてくれたのが、英語歌詞を中心にした楽曲の数々で、
ふと邦楽に目を転じた時、どの国でも大なり小なりそうだろうと思いつつも、
日本ってのは歌詞に随分比重を置く国民性にあるなあ、と気がついたのであります。

音を楽しみ、邦楽にはないエッセンスに魅力を感じ没頭している身からすれば、
ある面で「余計な労力」を歌詞に取られてるなあ、と。
勿論、歌詞もまた音楽を構成する要素であることに違いはないし、それは一定程度
理解も出来るんだけど、それにしてもバランサイズとしてはどうなのかと・・

日本語の邦楽が米国を中心にした海外市場へ思うように出ていけないのは、
日本語の特異性や外国人に拠る理解度云々じゃなく、そのバランスの悪さによって
結果的に「旋律にかける比重〜品質」が疎かになってしまったことに起因している・・
ように思えてならなかったんですねぇ。

単純な話、歌詞なんて「愛してます〜、好きよ嫌いよ〜」でいいんだと思うんですよ 笑
当時の米国ヒットチャート眺めたって、ポップスやロック、ソウル辺りの上位曲や
売れ線の曲なんてさほど大した歌詞じゃないものが少なくなかったわけで。
それよりもやっぱ、「メロディ」なり「リズム」なりがいい、キャッチーだから
売れてるものが多いのであってね。

でもって、洋楽に没頭していってからそれほど経たないうちに、
今度はクロスオーバー〜フュージョン〜ジャズという「インスト系」に
嵌まり込んで行ったわけですけど、そこには当然歌詞がない。(一部にはあるけど)
とすれば、尚更歌詞の重要性なんてまるでないわけです。

それに馴染まない、邦楽オンリーの愛好者がある時言いました。
「歌詞もないのに何がいいの?」ってね。びっくりしたというか、そっかぁと・・
つまり、その人にとって音楽とは「歌詞とセットのもの」という認識にあったわけです。
あるいは、歌詞ありの楽曲に対し「何を歌ってるかわかんないのにこれが良いの?」と。
それぐらい、邦楽オンリー〜純日本人の感性にとって、歌詞ってそれほど
重要なんだなあ・・と思ったのであります。

なのに、件のような「英語と日本語、和製英語と日本語のミックス」なんていう、
歌詞文学的には価値性があまりないものでも、市場ではそれなりの評価がつくという。
歌詞を重んじるはずなのに、内容はそうでもないのに・・

語弊はあると思うけど、ミックスであろうが比率がどうあろうが、
日本語が僅かでも入っていることが、邦楽リスナーとしての必須要件である・・
ってことなのかなあと。

これ、海外や外国人の多い場所に、日本人が僅かでもいると安心する・・
みたいな心理的状況と似てる気が。。(笑)
その点で言えば、日本人は音楽文化の側面でもやはり「内向き」なのかも。

で、日本での洋楽市場がかつてのような専有率にない昨今、
J-POPなんかを眺めると「桜」だとか、日本の街の風景・情景なんかを
前面に出したリリックが増えたような印象があるんだけど・・
この辺も、近年米国を中心とした各種文化がかつて程の隆盛になく、
全体的に外国的なダイナミックさより、日本的な情緒にある小粒感の方を好む・・
という傾向が間接的に投影されてる気がするんですよね。

音作り一つ観ても、楽器音はナチュラル系で、ボーカル含めて空間系エフェクトは
以前ほど派手に使わなくなってたりとかで、どこか「日本的な美意識」みたいなのに
傾倒してきた感があり。

そんなこんなで、英語の歌詞が混ざる・・英語が適してるってより、
歴史的背景として、たまたま英語と伴う文化が最初に日本を席巻したことと、
世界の音楽市場・ビジネスの圧倒的な中心が米国にあり、そのまんま日本も踏襲された
だけのことであって、フランス語でもポルトガル語でもイタリア語でも、
環境と条件が伴ってれば日本語とミックスされて自然になっただろうし、
あるいは逆に日本語オンリーで外国に普通に流通していた可能性もあった・・
ってことだろうと思いますがねえ。。

■なぜ日本語の歌に英語?和製英語のアクセントから、深い意味持つ本格英語へ
(THE PAGE - 08月08日 18:42)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=5236310
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