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2018年08月01日01:03

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【死刑是非論についての私見】〜兼備忘録・持ち出し用〜 その2

●〜被害者遺族の感情とは?〜

よく「被害者遺族の心情を考えろ」なんていう、もっともらしい言説がある。
既述のように、激しい怒りや悲しみの末
「同じ目に遭わせてやりたい・・と思っているに違いないだろう」
という漠然とした感情や推測論だ。確かに事件から採決までの一定期間、
その感情が占められることは想像に難くない。

だが、採決後の感想を聴く限り概ねあるのは
「一つの区切りにはなったが、これで終わった、整理がついたわけじゃない」
というものだ。その通りだろう。それで解決され翌日からバラ色の生活なんぞ
来る筈もない。単に法的な、事務的な処理が済んだだけのことだ。
死刑囚が死ぬ直前の様子も、肉声も遺族が直接確認することさえ出来ず、
「処刑されました」という伝聞結果や、様子の報告を伝えられるだけのことだ。
それで満足、または相当程度満たされるなんて温いもんじゃないだろう。

そして重要なことは・・。
遺族は、そうした法的な処置と時間の経過や、何より自身による
年齢や社会的な変貌の中での、自身の精神的変化と対峙することとなる。
事件発生から採決までのスパンと、以後の人生遍歴の中で、
初期段階からの心境は段階的に変質していくものだったりする。

つまり、激しい怒りや行き場のない心情で占められていた時期と、
次以降の段階での精神構造とは異なっていくものだったりする。
その辺りは遺族への長年のルポや、記録等で垣間見ることが出来る。

端的に言えば、初期から中間段階まではただひたすら憎悪や怒りが主流だったものが、
後に「なぜ犯人は事件を起こしたのか」や、「その後時間が経過して今、
どういう心境でいるのか」、「時間を経て自分の犯した行為の反省や後悔をしてるのか」
等の素朴な疑問、思いが沸き起こったりする例が見受けられる。

挙げ句、事例によっては犯人からの手紙による交流が行われ、その経緯の中で
後悔の念や反省の一端を遺族側が確認し、一定程度理解したり、
あるいはその苦しみを垣間見ることにより、亡くなった犠牲者との併合性、相対性を
長い時間軸の中で確認、鑑みることが可能となる。

無論、それは自動的に犯人を全面的に許すということじゃなく、
罪の認識や償い行為の遍歴、推移、心情の変化等々を遺族側自身確認することが出来る。
そのための手段を構築しておくこと・・それが社会的に遺族側を長期に渡って包摂し、
そして出来る限り心情の変化を優先して差し上げることではないのか。
それこそが、社会全体が遺族側を守り労り続けることじゃないのか。

得てして社会は、事件発生から一定期までは遺族と同じ側に立って怒り、
司法採決が決定すればまた怒ったり溜飲を下げたりで、それが済んだらもう
過去のこととして忘れたかの如く、次の話題へ移り・・。
以後に拠る遺族の様子や、心情の変化にはもう興味をなくすのが常だ。

トピックスに飛びつき、短期的にどうこういうだけで、
本質的な所はえぐって考察することもなければ、想像を巡らせることもしない。
結局の所「無責任」なのだ。無責任にもかかわらず、死刑を感情論でただ認めるという。

「死刑は、日本の社会的コンセンサスとして確立されている・・」
なんてのは、実は中身がない嘘八百だと思う。

●〜死刑廃止に伴う、終身刑の為の負担を社会が負うべきなのか〜

そうやって遺族側の意向に沿い、あるいは倫理的理由により死刑廃止にした時、
重罪人が一生涯を過ごす為の経費、即ち「税負担」なんかしたくない、
するべきじゃない・・という論調がある。

これも、上記による「遺族への長期的な包摂」の観点からすれば、
遺族側の意向なんか社会は、自分は認めたくない・・ということになる。
そんな重罪人なんかを生かしておく金など払う必要がない・・
自分は払いたくない・・つまり、遺族の意向よりも自分、というわけだ。

この何処が「遺族の心情に沿う、尊重するべき論」と合致するのか?
即ち、「死刑にして欲しい」という遺族の意向は認め、
「生き地獄の中後悔し続けて欲しい」という遺族の意向は認めないということになる。
これこそが“ご都合主義”であり、結局は遺族よりも「自分の懐」なんである。

遺族への補填は、見舞金や遺族保証等の「金で短期的にケリをつける」
という“金銭的な落とし所”で済ませようとするだけのことだ。
殺人などの重犯罪に対し、民事側面での補填だけで済まされることじゃないだろう。
だったら、後は如何にして被害者心情を長期的に包摂してあげられるかどうかだ。

●〜刑期間における受刑者の状態は「見える」のか〜

判決確定後、遺族や世間はその結果内容に賛否の反応を示す。
しかし、遺族を除いて世間広範は、報道がなされてからせいぜいが数日で、
以後はもうじっくり回顧したり、事件を語ることも急激になくなる。

量刑とは、犯した罪に対して測られる「計量的な時間尺」と言える。
それ自体は合理的で論理的であるが、冒頭に示したように、受刑者の義務は
その計量決定を漠然とやり過ごすだけではないはずだろう。

判決確定後から受刑期間をどのようにして送るのか・・
つまり、決められた期間の中で如何に自ら犯した行為を顧みて、
後悔や懺悔、反省、先の将来に向けて自分はどうあるべきか、
どう考えて何を目標に掲げるべきか、ありとあらゆる葛藤や迷走、苦悩を背負い、
無限ループ地獄に嵌り悶えること・・それが重要な責務だろう。

世間が関心を向けている裁判期間だけ反省したり、何かを表明するのは
一部期間だけのもので、時に採決への影響を見込んだ作為的な思惑が介在することも
あり得ることである。

本当にどれだけ反省をしたのか、し続けたのか、どれだけ葛藤したのか、
し続けたのか・・それは受刑期間の「仕事量や内容」で判断、図るしかない。
よって、その仕事内容にはある程度の透明化と、一定期毎に審査検討が必要だろう。
そして審査の結果、内容が好ましくない、足りてないとしたならば、
受刑期間はその分延長し、足りない分を更に務めてもらわないといけないはずだ。
さしたる務めを果たしてないのに、刑期満了が来たから自動的に社会へ・・
では、それこそ“再犯因子”が残されたまま、再び社会へ放流させることに繋がる。

そうやって継続的に受刑者の刑期内容を審査し、それを社会が確認、観られることは、
事件について「判決からその後まで」を包括的に考察し、
社会全体が長期的に評価出来る・・ということのみならず、
この行為は市民社会による「社会的な責務」と思う。

「事件を振り返る」という行為は、何も“いつ何時、こういう事件があった”と、
事実関係を思い出し、残虐性や犯人像を再確認することが回顧じゃない。
受刑者のその後がどういう状態にて償ってるのか、遺族側はどういう精神状態にて、
少しでも安らげてるのかどうか・・それらを社会は定期的に見つめてますよ・・
とすることが、本当の社会責任なんじゃないか。
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以上、ツラツラと書き殴り羅列したが、罪に対する“感情要素”を、
本質的な意味で「正しく具現化すること」が重要であって、
死刑によって消去することは、短〜中期的領域における「癇癪」の要素が大半であり、
応報の意義としても、結局は「ごく短期的な手法」でしかない。

従って、計量として刑を考えるなら、尚更正しい応報行為・手段に改めるべき・・
というのが自身の論理、その中心である。。

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