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2018年08月01日00:49

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【死刑是非論についての私見】〜兼備忘録・持ち出し用〜 その1

「死刑是非論」は、事ある毎に浮上しては沈静化、浮上しては・・の繰り返しで、
議論そのものは都度起きてもそこから思うように進展しない・・といつも思うところ。

そんな中、この度の「オウム死刑囚」による大量執行で、巷で再び議論が
沸き起こってはいるが、当事件の特異な残虐性や異質性を背景に、
他方では「カルトを基礎にしたテロリズム」の背景が土台にあることによって、
「命について」の倫理的観念や刑罰の概念等々は、科学的、医学的等の各種分野から観る
客観性はあってないかのような様相にさえ見える。

それはやはり事件の性質と共に、犠牲者や被害者の数、規模等がもたらす感情論によって
尚更死刑是非論そのものを歪める・・というか、真っ直ぐに論じさせない要素が
どっかりと中心に居座っているからだろうと感じる。

その事自体必然的と感じる半面で、それは結局
「残虐度やスケールが桁外れなんだから仕方がない・・」という後ろ向きな、
議論忌避の様相を醸し出している・・とも言えるわけで、仕方ないで終わらせては
またしても是非論は深まらず、いつまで経とうが国際的な観点からしても、
人類や近代社会発展の歴史経緯という観点からも「膠着した国」であり続ける・・
とのそしりは免れないという気がしてならず。

そこで、今後の議論のための持ち出し用として、また備忘録として
一度私見を纏めておきたい。 
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【結論】
・死刑の廃止。
・新規に「終身刑」の導入設置。(最高刑とする)
・新規に、終身刑未満として裁定された重犯罪に対する判決/刑罰分類の場合、
 受刑期間内の一定期に、収監期における受刑者の状態を審査の上、
 「受刑期の調整手段(再審理・再裁定)」を設定する。
 →受刑態度や状態、反省や償い、教育課程の内容如何で刑期の延長を可能とする。
 
<死刑廃止の理由>
◎ 応報の意義を中心にした刑罰として考えた時、既存の死刑罰の有り様からすると、
 犠牲者の命を奪ったことに対する“同等の応報”では、本質的な応報には至らないため。

◯ 現状日本における司法、警察、検察等の行政機関各々の有りてい・・
 即ち公訴権等にみられる、検察側〜裁判行政へ極度に加担された、
 バランスが著しく不適切な状態による裁定過程、並びに
「密室〜情報閉鎖に拠る捜査・審理過程」が改善されない状態では、
 本当に正しい採決とならない、また正しくないと見える経緯が存在する以上、
 その状態における死刑措置・実施は極めて危険性と問題性があるため。

  △鉾爾Α嶂雄瓠廚鯔瓢澆垢詆要性が生ずるため。

  国家権力に拠る“国民生命の毀損”を、応報手段として社会が認めることは、
 詰まる所「生命倫理的論理」に矛盾を生じさせ、その矛盾をそのままにして
 社会的に是認/許容することは、激情による感情論という不安定で、
 且つ論理的整合性が付き難い状態を肯定化し、あるいは社会的な倫理考察そのものを、
 忌避させてしまうことにまで至るため。
 
  「永山基準」を基調とした現行の死刑基準は、犠牲者の数的要素が事実上の境で、
  それ即ち「機械的・自動的な採決判断」を助長するだけとなり、
  充分な刑罰としての審理考察を損ないかねず、その要因を残したままとなるため。
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以上が死刑廃止とその理由。
以下、重要と考える項目についての補足を、俗っぽい文言・表現を用いつつ、
ハードルを少し下げながら記す。

●〜応報とはどうあるべきか〜

理由の最重要点、根拠の中心が◎の 
もし自分の大切な身内や知人らが殺されたら、突発的に沸き起こる第一義の感情は
激しい怒りと共に「殺してやりたい」という憎悪感が主体で、それは多分一般と
同一のものが発生すると想像する。が、自分ならばその次に直ぐ、
『猛烈な後悔と共に、とことんまで悶え苦しませてやりたい』と思う。
つまり、一生涯その苦しみの中で毎日を送らせてやりたい・・
「死ぬまで“生き地獄”にて苛まれるがいい」と思う。

これ、実は殺して始末するより遥かに至極冷徹・冷酷だろうと思うし、
微塵も倫理的とは言えないかもしれない。ある意味「人でなし」だ。
だが、それこそが最愛の人を失ったことに対する「応報の最高感情」だと思っている。

つまり、簡単に「死んで終わりにさせたくない」。
「死んでお詫び」、「死をもって償う」なんてのは単なる「逃げ口上」であり、
それを社会的・法的に行うのは「生き地獄から解放させてやる行為・逃してやる行為」
以外の何物でもないと思っている。

また、死刑を廃止すれば「死刑を免れることになって、結局助けられるじゃないか」
なんて物言いがあるが冗談じゃない、死刑は「逃してやる行為」そのものだろう。
罪への後悔や反省行為を、短期で「免除させてやる」のと全く同義だからだ。
つまり、死刑は「生温い」。

よって、死刑の「行為」は残虐だが、措置としては限りなく「後悔や懺悔行為の免除」。
死んだらお詫びのしようがないんである。生きてこそ、生き地獄の中でこそ
お詫びがようやく可能となるのだ。

それに対し「三食付きで反省や後悔なんて出来っこない、それこそ免除だろう」
なんてのもあるが。三畳程の狭い牢屋で、臭い飯を食わされ、自由のない、
24時間監視下に置かれる三食付きの一生が極楽なはずはない。
一生涯終わりのないそんな日々を、送り続けることの想像力が持てないなら、
刑罰論なんぞに参画する資格さえない、と思っている。

そりゃあ、死刑の場合は死ぬ直前や少し前の不安、恐怖心は与えてやれるだろう。
が、それも僅か短期間だ。それを過ぎれば後はもう何も感じることはない。
生きとし苦しみから全て開放され、魂とやらは何処へ行くか誰も知らない。
地獄に落ちた・・なんてのは何の根拠も証拠もなく、天国に行ったかさえわからない。
そんなの無責任だろう。社会による無責任だろう。
従って、死刑は生きている人間達による、葬り去ってやったという
単なる「自己満足」でしかない。単に「一時的な溜飲を下げるだけ」のものでしかない。

もしかしたら、死刑囚は死んだ後犠牲者と同じ場所へ直ぐに到達、
「同居」してるかもしれないのだ。そんなの認められるか・・ふざけるな、だ。

それを極限までさせず、生の領域で悶え苦しませるために、
生きている者達が与える罰は、生きながら閉鎖空間で一生涯後悔させ、
反省とそれに伴うプログラムを強制させる以外ない。それが本当の「応報」だ。

(その2へ続く)

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