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2017年04月11日03:49

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“不運”の天才少女物語、その終焉。

ふむ。遂にこの日がやって来たか・・。

“国民的アイドルスケーター(アイドルという表現が良いか悪いかはあれど・・)”として、
彼女のスケートそのものを観ていたわけだけど、ある段階からは妙に息苦しいというか、
彼女の演技場面だけは、純粋にスケート競技として観れない何かを感じ続けていたのであり・・。

彼女の代名詞ともなった「トリプルアクセル」・・。
代名詞であるがゆえ・・いや、“あり過ぎるがゆえ”、持ち前の武器によって、
自らをどこか傷つけた・・とどのつまり、武器が必要以上に大き過ぎ、
また、武器自体が重た過ぎたことで潰れてしまったように思えてならないんだな。

それは自ら背負い込んだというだけでなく、メディアを含め世論全体で、
過剰に背負い込ませた・・という面があったろう、と。

無論、彼女のスケートはジャンプ技術だけでなく、ステップワークなど幾つもの技術水準を
高く持っていて、それに魅了された面も多分にあったはずだろうものの、
どれもこれも結局『3回転半が成功するか否か』に掛かってしまい、
それが不成功だった場合、全てのスケーティングが台無しか、
あるいは魅力の大幅減へと暗黙の内に評価されてしまうという、
そうした「不運性」を抱えたまま、スケート人生の最後まで来てしまったという点で、
実に物悲しさすらも感じてしまう、という・・。

また、そんな彼女のスケーター人生の途中では、採点方法の変更などによって、
別な視点をもたらすきっかけが一応あったとはいえ、最後の最後まで3回転半の成否でしか
競技の出来が測られず、そして何よりも彼女自らがそれを課してしまった・・と。

その辺を考えると、高い目標を掲げるアスリートだからこその宿命的な部分と、
採点競技の特性ゆえの宿命部分とが混在した、ある種の「複雑性」・・
それがフィギュアスケートそのものを窮屈にした側面があるように思えるし、
またそれを彼女が、そして世間が一層窮屈に、どこか息苦しさを増長させたように思えてならず。

個人的に思うのは、彼女は何も3回転半まで飛ばずとも、充分に高得点を弾き出せるし、
点数のみならず彼女自身のスケーティングの幅や魅力はもっと広がり、
彼女だけにしか出来ない芸術性を追求出来た余地は、もっとあったのではないかと思っている。

結局の所、“天才少女の出現”の域から今日まで、国民目線と感覚の中で我が子のように、
妹のように「過保護状態」にさせながら、他方では“家庭教育”の如く一定領域に
「閉じ込めてしまった」ことが、彼女自身背伸びと無理強いをし、
どこかしら潰れてしまったかのような状態に追い込んだ気がする。

世俗的に言うならば、「みんなの真央ちゃん」現象が、世間の固定された世界観で嵌め込み、
彼女を“洗脳化”させた面というのがなかったのかどうか・・だ。
それは単なる「期待感」というざっくりとしたもの以上のものだったんじゃないか、と。

ソチ五輪直前、今でも印象に残っていることがある。

メディアをはじめとした世間一般では、「今度こそ金」の期待感で満たされ、
「次こそ間違い無し、真央万全」というムード一色だった中で、
深夜ひっそりと流されたNHKによる「視点・論点」での刈谷アナによる分析が実に興味深かった。

“真央フィーバー”で浮かれ立つ中、金間違い無しの論調に待ったをかけるかのように、
ロシアの新星「リプニツカヤ」と「ソトニコワ」の技術性と個別比較した時、それは大変脅威で、
寧ろ真央ちゃんへのメダルの期待は危険であるときっぱり冷静に言い切った。
更に、巻き返しに向けて状態を上げて来ているコストナーについても指摘していた。

本番では真央ちゃんに拠るショートでの、よもやのつまづきがあったとはいえ、
ソトニコワとコストナーの元にメダルは輝き、順位としてもリプニツカヤの下に甘んじたことは、
刈谷アナの分析が的を得たという皮肉な結果を省みるに相応しい事実だったわけで、
そのことは、毎度の如き繰り広げられる世間での「五輪狂騒曲」に対して、
いい加減冷静で適切な視点を持つことの重要性と、対して過度な“真央ちゃんフィーバー”が、
もしかすると重圧や不健全な空気というものを構成した・・
それを国民側自らが作り上げ、彼女を「悲劇の少女」にした・・という気がしてならず。

彼女は、僅か10代もそこそこで、その愛くるしさと共に天才少女として固定観念化され、
以後もずっとその時の印象と世界観の中でしか表現が許されないかのように、
常に「あの頃の可愛い真央ちゃん」から脱皮することを認めて来なかったのじゃないか・・!?

少女から大人へ羽ばたく中で放たれる、女性特有の美しさと儚さは、
最後までふんだんに見せることなく終わった、あるいは、復帰後の僅かでしか
その一端を見せるか見せないかの域で終わった気がするわけで・・。

個人的にはその点で、復帰前よりも復帰後による彼女の演技やスケートの方に、
実のところ安心感というか魅せられる部分を感じていたわけで・・。
完成度自体は決して満足な域に到達しなかったものの、重心が定まったというか、
復帰前に感じたどこか「フワフワとした」ものが薄らぎ、地に足がついた感のある
「重さ」というのが観られた気がしていた。

重心が定まることで、上半身や手先の柔らかさ、しなやかさが一層映え、
スケート全体が大きくてスケールアップしたかのような・・。
これがいわゆる「大人の女性」としての表現だとするなら、彼女のスケーター人生としては
本当の第二幕だった気がするし、そこに3回転半はもう必要がなかったのではないか、と。

同一視するのは少々不適当かもしれないが、復帰後の姿の中には
どこか「荒川静香」が持つ特性がチラホラと垣間見える、重なる部分が僅かに
あった気がしている。もしもその部分をもっと磨き上げたなら、本当の「深化した浅田真央」、
その誕生を拝めたのではないか、とさえ思っている。

それだけに、3回転半という呪縛に彼女自身も世間も囚われたことが、
何とも勿体無いというか、不運だった気がしてならない。

「最高の武器が、自らに刃を向けて幕を閉じた・・」
これが正しいか間違いかは、彼女がもっと後になって回顧した時、答えが出るのかもしれない。。

浅田真央が引退 ブログで表明
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4521353
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