戦没者追悼文の前に出された70年談話と、如何にして整合性が取れているか、
そこをよく勘案しなくてはならないだろう。
既に談話発表後、様々な指摘が成されているように、「主語が曖昧」
「直接的でない」等の部分はまさにその通りで、あらゆる面で中途半端であり、
その半端さは安倍氏や周辺による思惑、政治的主張らが内包され、
それが透けて見えるという点で、実に聡明さに欠けると言わざるを得ない。
結局の所、先の談話は定型フォーマットに当て嵌め、長文の中にキーワードを潜り込ませ、
全体として体裁が整えられているか否か、その一点にのみ心血を注いだ、
言ってみれば『ビジネス文書』であったということだ。
あるいは「外交的文書」であり、二国間会談や条約提携などにみられる、
政治的声明文書とあまり変わらないということだ。
当然ながら、戦後談話にもそうした政治的ニュアンスが内包されるということには違いがない。
だが、敗戦国として、多大な損害を与えた立場であることを背景にした文書であるならば、
政治的・主張的ニュアンスは適度に抑えるということでなくてはならず、
あらゆる民族や立場を超えて、広範に届く聡明さと「心」の部分が如実に
表れなくてはならない文書であるべきもの。
しかして、「侵略の定義云々」に触れてみたり、「次代の子供達云々」など、
さりげなく『逃げ』や消極的姿勢が浮き彫りになっている。
ビジネス文書であるからして、その表層的出来栄えを主体とした評価の視点となり、
先の大戦による日本の行為と、その影響で犠牲となった人々や遺族、国家に対しての、
根幹とされるべき『心情』の部分を労る、癒やす効能とはなっていない、
そのことが一番の問題点だろう。
つまり、戦後談話は本来、文書ではなく『手紙』でなくてはならないはずだ。
手紙は、書き手による心が相手の心へ直接的に届くかどうかが肝である。
文体の表層的出来栄えや、多少の体裁はやや次第点であったとしても、
最終的に読み手の心に浸透し、納得や共鳴、感嘆などの心的作用を
どれだけもたらすことが出来るかに掛かっている。
つまり、語句や表現に本来の適正さに欠けていたとしても、
心がこもっていれば相手は相応に納得するものであり、そこにはデジタライズされた
フォーマットは無意味となり、アナログライクな要素自体が肝要なのである。
それは何より、人間そのものがアナログであるからだ。
対して、この追悼式における天皇のお言葉はどうであったか・・。
短いながら平坦で、学があろうがなかろうが、多くの人々が明確に解することが出来る、
実に清い文体であったことか。これこそまさに、文書ではなく「手紙」であったことに他ならない。
だからこそ「深い反省」という言葉が真っ直ぐに響く。
その深い反省という文言に、やれ何だかんだと虚飾や言い回しといった余計な語句はない。
その念がありのままに、実直に響くのは他でもない、「心ある手紙」であるからだ。
手紙の根幹要素を排した文言は、どれだけ聡明な言葉で飾ろうが、虚しいものなのである。
■安倍首相の式辞全文 戦没者追悼式
(朝日新聞デジタル - 08月15日 13:03)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3567720
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