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2015年08月15日20:28

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この日に寄せて。 〜再掲〜

昨年かその前か忘れたが、その時も書いたこと・・・
一部のマイミクさんの所にも書いたことで、このことは自分にとっての屈辱や
ある種の辱めでもあるものの、世の中の雰囲気が変質して来ている今だからこそ、
再び記そうと思う。

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私の両親は戦争体験者だ。父は大阪生まれの大阪育ち。
大阪大空襲に遭い、母親はまだ幼い兄と弟(父)の手を引き、焼夷弾の雨嵐の中、
火の粉の欠片が母の後ろ髪や着物の一部に燃え移るのを必死に消しながら、
燃え盛る街を逃げ迷い、どうにか命からがら逃げ切った。

その後直ぐに廃墟と化した街をやむなく後にし、親戚の多い富山へ。そして終戦。
混乱と極度の食糧難を前に、育ち盛りにもかかわらず腹を空かせる我が子を何とかするため、
悩んだ挙句、遠い北海道の農家を営む親戚のもとへ居を移すことを決意。
農家ならば、そこで手伝い働けばどうにか飢えることはないだろう、
子供らに僅かでもコメを食べさせてあげることは出来るだろう、という思いからだ。

何日かかけ辿り着いた北海道の田舎町。親戚の家は親子8人暮らし。
幸いに北の田舎町は東京や大阪等の空襲に遭うことがなく、
凄惨な地から逃げ切った事実を憂い哀れみ、父ら三人を受け入れてくれた。

以後母(祖母)は無報酬で農作業を手伝いながら、代わりに僅かな食料を頂き、
必死に子育てを始めた。当初は祖母らを哀れみ同じ食卓で食事をするも、
日が経つにつれ、同じ育ち盛りの子供が多い親戚と祖母一家の間で、
微妙に溝が深まっていった。限りある食料を前に、子供らの間で取り合いや
いがみ合いが起き、父方の方が居候という立場上、扱いが二の次にされていったからだ。
当然ながら、親戚両親もまた我が子優先の姿勢を取っていった。

そうした空気を前に祖母はいたたまれず、そのうち家とは別の納屋で寝食をする・・
祖母一家の生活の殆どは、納屋の二階の隅っこでするようになった。

戦後食糧難は先が見えず、充分なコメの生産体制が整っていなかったり、
連続する天候不良等も相まって、分け与えられる食料はみるみる減っていった。
腹を空かせ続ける我が子を前に、そして厳しさを増す親戚からの差別的、
厄介者的扱いが増長、我が子への不憫さを前に悩みを深め・・

「自分さえいなければ、自分の分の食料が我が子へ回る・・」

その思いの果てに、遂に自らの命を絶った。

終戦後、数年が経ったある日に__。

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このことは、私が成人を超えて少し経つまで全く知らされなかった。

ある時、家族内で揉め事があり、頑固で理屈者、その性格から確執が起きそうな中、
不満を募らせた私が父に迫った時、家族を思うがあまりに自らの論を通さんとする理由を、
この事実に重ね合わせ説くべく、重い口を開き打ち明けた。

ショックだった。ショックで目の前が真っ白になった。

それまで祖母は、病気で亡くなったと知らされて来た。
私が育った環境は、決して裕福ではなかったものの、当時の状況含めても
それほど生活に困ることなく、平凡な家庭に育つことが出来たし、
親しい母方の親戚含めて、幸いにもこうした酷い、自決のような事実とは縁遠かった。

まさかそれが、自分に近い、しかも祖母がそうであったという事実に、
激しく震えうろたえてしまった。
その話を打ち明けた途端、父は嗚咽にも近い涙を流した。
誰よりも信念が強く、職人気質と昭和初期世代の頑固さを持つ父・・
私が生まれて20年以上経って初めて見せた、取り乱した涙だ。

台所仕事は殆どやらない父だが、母が病で入院していた際、おぼつかぬ手で
炊事をやっていた父が、ご飯を炊くといの一番で釜の中央でツヤツヤするご飯をすくい、
毎度必ず自分の手で、部屋の片隅の棚にある隅っこの、小さく淡い写真と位牌の前に
添えていた意味が、その時ようやく解った。

白いコメを食べたくても食べられない、ひもじさと苦しさの末、我が子を守らんとした祖母に、
自らの手で炊きあげたコメを、自らの手でそなえたかったのだろう、と。

小さな頃から特段の理由なしに食べ物を残すことを許さず、
茶碗に付いた米粒一つさえ付けたままにすることを激しく叱り、
他方では腹いっぱい食べよということを今でも口にする意味は、
まさにこのことだったのだ、と。

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私が幼い頃から、テレビで戦争当時の映像等流れる度、父はどこか独り言のように
「戦争なんて絶対にやっちゃならないんだ・・」と繰り返して来た父。
その意味は、単に戦争経験者で、焼夷弾の恐怖を目の当たりにして来た世代だからだろう・・
そう漠然と思っていたフシがあった。

しかしこの事実を前にしてから、戦争とは何をもたらすのかということを、
少しずつ考えるようになっていった。戦時中は勿論のこと、終戦直後から
復興を達成するまでの間、テレビなどで映し出す奇跡的にもどこか華やかしき戦後日本の姿、
日本人の姿は果たしてあの通りだったのだろうか・・
「苦労の末にようやく立ち直った・・」という表面的文脈の裏には、語られぬ、
映し出されぬ様々な事実が隠されているのじゃないか、
あるいはどこか無視されてやいないのだろうか・・という思いが強くなっていった。

その後自分に近い、戦後復興の時代を歩んだ人々に、出来るだけその頃の話を聞くようにした。
するとやはり、決して順風満帆などではない、惨たらしい事実が次々と出て来た。

焼け野原に呆然と立ち尽くし、先々の未来など描けることもなく、希望を持つことなど出来ず、
ただただ目の前の時間を生き延びることしかなく・・。
そんな人々の間では、徐々にやり場のない憤り、絶望、嘆き、妬み、不信感、差別、疑念・・
様々なネガティブ思考、感情が入り混じり渦を巻く中、不協和音を生み出し、
庶民の感情は総じて荒んだものとなり、それが時にいがみ合いや喧騒、略奪行為、
殺人や傷害すらも絶えなかったという。

それがいつまで続いたのか、いつの時点でほぼ終焉を迎えたのか、
その時期を明確に弾き出すことは難しいが、少なくとも開戦から終戦までの数年より
もっと長い期間続いていたことは間違いない。

つまり、足早に流れていく戦後史実の表面には決して表れていない、
戦時とはまた異なる凄惨な実態が山のようにあった、ということだ。

このことから何が言えるのか・・・。

戦争は、何も戦時だけ被害が集中する、酷くて犠牲を出すのではない、
戦後にも質の異なる犠牲や被害を及ぼすのであり、一方で不健全な社会や感情を
もたらしてしまう、しかもそれがいつ消えるかもわからない、寧ろ半永久的に引きずっていく・・
その点では戦時も戦後も何ら変わらない、『戦後もある意味で戦時』なのだろうと。

こうした実態は、およそ70年近く前の事実関係を探し掘り起こさなくとも、
今この瞬間世界を見渡せば、悲しいなかな容易に知ることが出来る。

中東を観れば、繰り返される戦時と戦後があり、同じような劣化した感情が
激しく渦を巻いていて、健全な思考を持つことや希望、未来を描けずにいる。
ここに、優秀な構成のロジック、理屈など通じなくなる、もはや風前の灯同然となる。

日本人にとって、その参考書を活かさずしてどうするのか。
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終戦の日を迎えるたび、私は祖母のことを想う。

祖母は、戦争犠牲者にはカウントされない。国や公的機関もその事実を
掴めていないばかりか、当然の如く戦後補償など微塵も受けられない。

だが私は声を大にして、『祖母は戦争犠牲者だ』と言いたいし、間違いなくそう思っている。

本来は、焼夷弾の雨から必死に逃げ、自分の命を守り、生きることを選択したのだ。
そうやって折角戦後を迎えられたにもかかわらず、自らの意思で自らを殺めるに至った理不尽さ・・

あの戦争さえなければ、少なくともあのようなことをしなくても済んだ・・。
我が子らを悲しませずに、重く暗い運命を背負わせずに済んだ・・。

何より、あの戦争さえなければ、もしかしたら私は祖母に会うことが出来たかもしれない・・。
それを思う時、悔しくて悔しくて堪らない。

同時に、父が背負って来た重き運命と苦しみについて、如何様にしてそれを共有しながら、
他方でそのような悲劇を、今後どの人々にも背負わせてはならないと、思いを強くする。

「出来は悪いが、父の子で、貴方の孫です。」 そう言いたかったし、
一度でいいからこの孫の姿を、祖母に観てもらいたかった・・。

そして一度でいいから孫として、好物を揃えてご馳走したかった。
もう沢山というまで、お腹いっぱい食べさせてあげたかった・・・。


天皇陛下「深い反省」終戦の日
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3567731
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