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2020年06月04日00:45

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浜寺周辺散歩(2)

諏訪神社遥拝所で方向転換して、しばらく歩いたら阪堺線の船尾駅です。そこから商店街になっていて、そこを進むと紀州街道に戻ります。さらに商店街を進むと、南海本線諏訪ノ森駅に着きます。
諏訪ノ森駅には小ぢんまりしたかわいらしい駅舎があります。ステンドグラスのあるレトロな駅舎です。しかし高架化工事のため周囲を囲われており、屋根のほうしか見えません。しかも曳家したらしく線路から少し離れています。高架工事が終わったらまた駅舎として使われるそうなので楽しみにしています。

そもそもこのたびの高架化工事については、隣の浜寺公園駅が明治のクラシックな洋館風の素晴らしい駅舎で、これをどうするかが問題になりました。こんな見事な駅舎を壊すなんて選択肢はないだろうと思いましたが、なにしろ阪急も大丸も平気で歴史のあるレトロな建物をぶち壊してまがい物を建ててしまいますからね。
しかし保存活用の運動が行われ、浜寺公園の駅舎は高架完成後にも駅舎として使うことが決定されました。
さて、その隣の諏訪ノ森のレトロ駅舎は浜寺公園駅ほど大きくもなし有名でもなし。こんな小さな駅舎はあっさりひっそり壊されても泣き寝入りかもしれない…と懸念していました。しかし浜寺公園駅と共に保存活用されることが決まりました。

南海、偉い!

さて、元来た道を引き返して紀州街道まで戻ります。
紀州街道を入っていくと、三光橋があります。散策マップには浜寺の地名のもとになったとしか書いてありません。それは一体どういうことかと調べたら。
鎌倉から南北朝のころ、弧峰覚明という臨済宗の名僧がおりました。後村上天皇から三光国師という号をいただき、大雄寺という大伽藍を築きました。その地は以前から高師の浜と言われた海岸で、お寺は高師の浜の寺と呼ばれたそうです。その後、寺は戦乱で焼失しました。その寺があったのが今の浜寺公園のあたりだと言われています。南海高師浜線の伽羅橋駅のあたりで寺のものと思われる瓦が出土したそうです。
お寺の門前町として三光茶屋などができて、三光川に三光橋がかかる、ということになりました。

さらに検索の深みにはまっていきますと、浜の寺という言葉はその後も残りましたが、浜寺という地名ができたのは明治になってからだそうです。明治に堺県大鳥郡ができました。その後大阪府に組み込まれました。その中にあった下石津村、船尾村、下村が合併して、浜寺村ができました。行政上の地名で浜寺という名前になったのはこの時からです。そして町制施行で浜寺町に。

堺県があったのは初めて知りました。
それで明治以降の堺の地名の変遷を見てたら、統合やら分離やら境界変更地名変更、あまりにもややこしすぎて把握出来なくなりました。
現在の浜寺●●町(浜寺諏訪森町、浜寺船尾町、浜寺石津町、浜寺昭和町など)という複合地名ができたのは昭和18年だそうです。

小学校の時に地域の歴史を学ぶと思うんですが、私は小学校の時は大阪市にいたので大阪市の歴史を勉強しました。今の大阪市の半分ぐらいは海で、上町台地のそばま近くまで海だったとか。そういうこともあって、堺の歴史はさっぱりです。
堺の小学校では堺の歴史も教えているのか、もしそうならどの程度教えているんでしょうね。地域性もあるかもしれません。
私は小学校では大和川の付け替え工事のことを習ったことを覚えています。大和川のすぐそばだったからでしょう。大和川の付け替え工事を行った中甚兵衛の石碑が近くにあった…と思うんですが。
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