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2020年01月20日00:30

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夏の東日本周遊紀行 その3

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続きました。



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平成30年8月10日
おはようございました。
この日は5時に起床して5時40分頃にチェックアウト、お宿の目の前は仙台の愛称「杜の都」の一部を成す巨大な街路樹の植えられた定禅寺通り。
今や通りを覆い隠すまでに成長した街路樹の下、真夏の朝の空気を吸いながら歩くのは心地良い。

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そんなわけでこの日は仙台市営地下鉄の乗り潰しのために地下鉄南北線の勾当台公園駅から出発。
一日乗車券を購入して上り始発列車に乗車します。

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勾当台公園からものの10分ちょいで終点の泉中央駅に到着、関西住みのかわちさんとしては泉北高速の和泉中央駅のが馴染み深いので駅名に「和」が付いていないことに何とも形容し難い違和感があります。ああ、そういえば相鉄線にも何か似たような駅がありましたね。
駅周辺は大型商業施設や区役所、郵便局に銀行などが集中する郊外の新興都市ターミナルと言った雰囲気ですが、私が訪れたのはまだ6時過ぎで人通りも少なく駅併設のコンビニくらいしか営業している店舗も無いのでがらんとした空間だけが広がっていました。
なに今回は地下鉄の乗り潰しで来たのだ、直後の下り富沢行き列車に乗って折り返し。

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泉中央から仙台市内を南へ下り、今度は列車の終点の富沢駅へ。実際の線路はこの先にある富沢車両基地まで伸びているものの営業列車はここまで、これで地下鉄南北線も完乗ね。
駅周辺は仙台市のベッドタウンとして近年の再開発が進められていますが、再開発に伴って地中からは縄文時代の集落跡や墓地、土偶、弥生時代の稲作跡、古墳時代の古墳、飛鳥から奈良時代にかけての官衙(役所)跡や道路、鎌倉時代の武士の邸宅跡などの遺跡が発見されたとか。

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富沢から再び南北線で北上し今度は仙台駅で下車、東西線の上り列車に乗り換え。仙台市内に十字に伸びる仙台地下鉄の乗り潰しは行ったり来たりしなければならず時間がかかる。
南北線から乗り換えると何とも小ぶりながら私が乗車したときから約5年前に開業したばかりの路線でピカピカスタイリッシュ。小ぶりな車体や銀色の車体が合わさって横浜グリーンラインを思い出す。

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仙台市街から山手にある青葉城をぐるっと迂回し、途中地下鉄なのに竜ノ口渓谷を橋で跨ぎ終点の八木山動物公園へ。心霊スポットで有名な八木山橋もこの近くですね。
山手にあるこの駅は「日本一標高の高い地下鉄駅」だとか。

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八木山動物公園駅から再び地下鉄東西線を折り返し終点の荒井駅へ、これにて仙台市営地下鉄も全線完乗です。
山手の八木山から仙台市街の地下を駆け抜け今度は海に近い仙台平野、と言っても海からは5km近くあるのですが、さきの大震災の際には当時開業前でまだ田畑が広がっていた荒井駅付近まで津波が到達したとか。その関係からか駅舎には震災の被害を伝える展示施設も併設されています。



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荒井駅から再び仙台駅に戻り宮城電気鉄道・・・、もとい仙石線に乗り換え。
仙台市内を出て塩浜を経た辺りから車窓には日本三景、松島の海。
仙石線の塩釜〜高城町間は乗ったことが無かったから松島の景色を仙石線の車内から見るのは初めてでした。

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列車の終点、高城町で仙石東北ラインから来た石巻行きの快速に乗り継ぎ。
高城町を出た列車は陸前大塚付近から標高を上げてゆく、かつてはもっと低地を走っていた仙石線も震災による津波の被害で路線の高台移設を余儀なくされた。事実震災時には東名〜野蒜間で上り列車が津波に呑まれ脱線している。

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列車は終点の石巻へ到着。
石ノ森章太郎氏の博物館がある石巻、仙石線ホームから改札への途中では仮面ライダーとサイボーグ009、001、003。ちなみに氏の故郷旧石森町は現在の登米市、石巻市は氏の第二の故郷とのこと。
しかし石巻で特に何をするわけでも無く小牛田へ向かう石巻線の列車に乗り換え、申し訳ない。


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列車を途中の前谷地で下車し、向かいのホームで接続待ちをしている気仙沼線の列車に乗り換え。
石巻方面から乗り換える乗客は私一人、車内も数人の乗客だけでガラガラ。

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列車は涌谷、登米の田園風景を眺めつつ北上する。
藩政時代、この涌谷や登米の辺りは仙台藩領として伊達氏の一門が配されて重要視されてきた米の名産地。現在の登米市域とは一致しないものの、江戸時代前期に登米の石高は二万石を数えたという。
そんな豊かな田園を眺めつつ、北上川を渡れば終点の柳津へ。




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前谷地からわずか20分ほどで列車は終点の柳津に到着。
かつての北上川の河港があった柳津、明治から昭和にかけて行われた北上川の流路の付け替えまではここから西へ迂回するように石巻へ流れていました。
気仙沼線はここからさらに北上山地の谷間を縫って南三陸、そして路線名にもなっている気仙沼へ向かっていました。・・・ました。

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さきの震災により気仙沼市や南三陸町の気仙沼線は津波の被害を受けたため柳津以北の区間はBRTにより仮復旧、路線は線路がはがされてBRT専用道となってしまいました。
私が訪れた時点で震災から約7年、BRT路線で復旧したとは言え気仙沼線は鉄道で気仙沼まで行けなくなり鉄路は断たれてしまった。

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そんなわけで柳津からは気仙沼線BRTに乗り換え、一応JR路線の代替扱いなので18切符でも乗車可能。
赤い車体が目に付く日野ブルーリボンシティハイブリッド、うん普通に路線バスだ。

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前面の車窓からはいかにも鉄道路線を転用しましたという風景、途中にはバスの行き違いも行えるように退避スペースが所々に存在します。信号場かな?
実際BRT路線上で問題があった場合は国道経由で運転したりと鉄道に比べて融通が利くとは言え、窮屈で乗り心地もいまいちで足も遅い。あと車内にお手洗いが無いのは少し辛いかも。
結局のところ、致し方なかったとは言え柳津から盛までの鉄路は失われてしまった。

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北上山地の谷間を抜け、陸前戸倉付近からは車窓に志津川湾も見える。
三陸の名物、牡蠣やホヤの産地で養殖筏も遠くに見えるこの海が9年前のあの日に押し寄せた。

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南三陸町の中心、志津川へ入ると景色は一変、かつて街があったところが丸々更地となっていました。
震災で全国に報道されてその名前が広く知られた南三陸町、志津川高校から撮影された津波が町を飲み込んでゆく光景はテレビなどでも何度も繰り返し放送されて有名でしょうか。
私が訪れたのは震災から7年も経った頃なので瓦礫などは処理され土地の嵩上げ工事が行われている真っ最中でしたが、映像で見た街ひとつが一瞬で無くなってしまった場所を通過とは言え訪れるのは何とも言えない、言葉にならないものがあります。

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南三陸町の中心、志津川から清水浜、歌津を経て列車・・・もといバスは宮城県最北の気仙沼市へ。
私が訪れた際にはまだ気仙沼線路盤のBRT専用道化が行われていない区間も多く、一般道とBRT専用道を言ったり来たり、何とも中途半端な継ぎ接ぎ感。
途中、気仙沼市本吉の大沢漁港近くでは海沿いギリギリを走っていた気仙沼線の築堤がはっきり確認できました。浜に流れ込む川に架かっていた橋は流されてしまったのでしょう、津波をモロに受けた築堤は少し削られ、橋梁を支えていたコンクリートの橋台が築堤より少し飛び出すような形となってしまっています。


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柳津から約2時間ほどでバスの終点、気仙沼駅に到着。
これで気仙沼線は鉄道区間、BRT区間含め完乗ね。

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気仙沼駅はかつての鉄道線ホームへそのままBRTが乗り入れるような形に改められ、気仙沼どまりとなった大船渡線列車と同ホームで乗継ができる不思議な光景。
大船渡線乗り場に停まっているのは大船渡線のポケモントレインですね。

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気仙沼駅は「気仙沼」を名乗りながら海に面した気仙沼中心部からは離れた山手にあるので津波の被害を受けることは無く当時のまま。
昭和の初めに一ノ関から伸びてきた大船渡線が開業した当時には大船渡へ向かうことを優先してわざわざ気仙沼市街に駅を造ることはしなかったみたい。

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次のバスまで50分ほど待ち時間があるのでちょうどお昼時なので昼食、気仙沼駅前のホテルのレストランでチキンカレー(780円)など。
注文の際に女性のウェイターさんから「それ辛いよ」などと言われたけどなるほど、思っていたよりは辛口、むしろそれが良い。
ちなみにこの約一年後、かわちさんは大船渡線乗り潰しのために気仙沼でこのホテルに宿泊することになるのはまた別の話です。

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さて、腹ごしらえもできたところで再びの気仙沼駅からは盛行きの大船渡線BRTに乗ってさらに三陸を北上します。
気仙沼駅を発車してすぐにぶった切られた大船渡線の線路、そしてその先に続くBRT専用道、大船渡線も鉄道で大船渡へ行けなくなってしまった。

鉄道だった頃の大船渡線は気仙沼駅の次の駅、鹿折唐桑から山手に入り、純度の高い金を採掘したことで知られる鹿折金山の脇を通りトンネルで宮城と岩手の県境を越えて陸前矢作を経て陸前高田へ向かうルートでしたが、BRT化された大船渡線は鹿折唐桑から国道45号線を通り海岸沿いに陸前高田へ向かうルートに変更されてしまいました。
沿線住民の少ない鹿折経由より既に国道が整備されていて比較的沿道に住宅も多い現行ルートを採ったのでしょう、もしも将来かつての鹿折経由の鉄道路盤がBRT専用道となった際には改めて訪れましょう。

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国道を走って岩手県に入り、陸前高田の町が近づくと最初に見えてくるのが旧気仙中学校校舎。
気仙川の河口近くにあるこの校舎は震災当日、三階建ての屋上を越える高さの津波に呑まれてしまったという。幸い生徒教員は国道を挟んだ向かいにある山に避難して全員が無事だったそうな。

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そして全国区で名前の知られた「奇跡の一本松」。
津波を乗り切った松もその後枯死してしまい、現在は人工的に防腐処理されてエバーミング松と化しています。
その是非については色々あるものの、「奇跡の一本松」というBRTのバス停も設置され陸前高田の観光スポットになっているのであればそれはそれでよいのではないでしょうか。

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あの日、悪い意味で一気に全国に名が知れ渡ってしまった陸前高田、街ひとつが更地と化すショック、東北の復興未だ成らず。

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陸前高田に到着。
復活した陸前高田駅舎(?)は被災前の鉄道駅時代の駅舎を模した造り、事実上のバス待合室ですが鉄道代替の路線なのでみどりの窓口も設置されています。
駅の位置としては東に300メートルほど移動しただけながら、大きく変わったのはその標高。かつて市街地が広がっていた陸前高田駅以北の土地を嵩上げして新市街地の建設が進んでいます。駅前には郊外によくある大型複合商業施設も完成した。
陸前高田からは鉄道線時代のルートだった陸前矢作駅までのBRT路線も出ていますが・・・、そちらはまた次の機会に。

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陸前高田を発車して少し言ったところにあるガソリンスタンド。
店舗は被災後復旧したものですが、看板は津波を乗り越えた当時のものが引き続き使用されています。嵩上げ工事のために撤去予定だそうですが・・・。

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嵩上げ工事で元の地形がわからなくなってしまった陸前高田市街を抜け、小友駅からはBRT専用道に復帰。
曇っているものの田園の中を駆け抜ける鉄道然とした景色、鉄道で通りたかったものです。

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小友から終点の盛まではBRT専用道なのでバスは軽快に飛ばす。
大船渡線の路盤を転用した道なので道路端には大船渡線のキロポスト、細浦駅などはバス停のすぐ北側に鉄道線時代のホームがそのまま残されています。



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気仙沼を出て1時間10分ほどで終点の盛駅に到着。
盛も気仙沼と同じように旧大船渡線の線路跡がBRT専用道となりバスが直接ホームへ乗りつける形となっています。
柳津から気仙沼を経て盛まで116.5km、気仙沼線も大船渡線も被災地域は沿線自治体がBRTでの復旧で合意したので鉄道として復旧することはもうあるまい、残念とは思うけどこれで乗車したことにしましょう。
もしも将来鉄道で復旧する日が来たら、そのときは改めて再訪するぞ。

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盛駅からは国鉄盛線・・・もとい三陸鉄道南リアス線(当時)に乗り継ぎ、そうそう三陸鉄道って言えばこの色よね。
今回乗車する36-700形は震災時に津波で被災した車両の代替としてクウェートの支援で建造されたために車体側面にはクウェートへの感謝の言葉が書かれています。

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駅から見える車庫に1両だけ見える水色のWAONラッピングをした36-105号は震災時に営業運転を行っていて、地震の瞬間に吉浜〜唐丹間の鍬台トンネル内で停車、南リアス線の車両で唯一直接の被害を免れた車両でもあります。

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列車は盛を発車して三陸の海を見ながら北上、しかし小雨が降る重たい曇天で海に突き出したリアス式海岸の間を走る南リアス線は基本的にトンネルばかりで車窓を楽しめるスポットは思っていたよりも少ない。
特に吉浜〜唐丹間の鍬台トンネル(3907m)や唐丹〜平田間の石塚トンネル(4670m)などの長大トンネルでは洞内の気温と小雨が降る中での湿気のためにトンネルに入ったとたんに車窓が雲って外に出ても真っ白けなんてことに。

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そんなこんなで終点の釜石に到着、三陸鉄道も完乗です。
せっかく乗車した南リアス線も次の年には山田線海線の三陸鉄道移管で北リアス線と結ばれて「リアス線」へ吸収、翌年再び訪れることになるのでした。


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さて、釜石といえば日本の近代製鉄業発祥の地。駅前にはもうもうと蒸気を吐く新日鉄住金釜石製鉄所が目に付きます。
幕末に良質な鉄が採掘される釜石に西洋式高炉が造られたのに始まり、有名な北九州の八幡に先んじて造られた日本最初の官営製鉄所こそこの釜石製鉄所。
その重要性から釜石鉱山のある大橋から釜石製鉄所まで日本で三番目の鉄道路線となる釜石鉱山鉄道が敷設され、後には釜石と内陸を結ぶ山田線や釜石線が建設されました。
またラグビーの街としても知られる釜石の元となったのもこの釜石製鉄所の実業団ラグビーチームから始まったとか。

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そんな釜石も震災時には津波で被災。
南三陸や陸前高田に比べればマシだったものの、街中を流れる甲子川を遡り釜石駅付近では膝上から太股くらいの高さまで浸水したみたい。

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さて、釜石からは釜石線を経由して盛岡へ向かう列車に乗車。
釜石線に乗るならSL銀河、せめて快速はまゆりの指定席とか乗りたかったけど今回は切符が取れなかったり時間が合わなかったりで予定変更したのでした。

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列車は甲子川沿いに北上山地へ分け入り陸中大橋へ。
陸中大橋に残る巨大な遺構は釜石鉱山から産出される鉄鉱石を貨車へ積載するホッパー設備、往時の繁栄を物語る遺構です。
また駅のある大橋地区は今の釜石線の路線とは別のものながら、先述した日本で三番目の鉄道路線である釜石鉱山鉄道の起点となった場所、今では山間の静かな集落が明治維新直後の日本においては特に重要な場所であったのでした。
無人駅で駅舎も撤去され、がらんどうな広い構内が残されたこの駅も、鉄鉱石輸送華やかだった頃は二本の鉄道路線が併走して走り鉱山住宅が軒を連ね、駅には駅長も配されていた時代がありました。

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さて、陸中大橋から有名なオメガループで仙人峠を迂回するように越え住田町へ。
山間の日暮れは早い、あっという間に陽も落ちて途中の遠野に着く頃には車窓は真っ暗。観光地の遠野からはもう少し人が乗ってくるかと思ったけどあんまりだったわ。
釜石から終点の盛岡まで3時間以上、途中で居眠りして宮沢賢治の「シグナルとシグナレス」の舞台となった花巻駅を夢見心地のまま通り過ぎ気がつけば進行方向は逆向きになっていました。
朝からずっと乗り鉄してきたけど正直釜石線に乗ってるのが一番辛かった。


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20時38分、列車は無事終点の盛岡駅に到着。もう腰とか肩とかバッキバキやわ。
地下鉄に乗ったりしてたけど仙台から盛岡まで三陸の沿岸を通って来るとこんなに時間がかかるものか。
そんなわけでこの日は盛岡で宿泊します。

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盛岡に降り立ったのは寝起きだったからか、真夏なのに外の空気が肌寒くてホテルに急いだのを良く覚えている。
盛岡といえば冷麺が有名ですが、どうにも冷たいものをいただく気にはなれず、暖かいものをと思いホテル近くのラーメン屋でよくある醤油ラーメンをいただきました。こういうのでいいんだよ。
次の日も始発列車で出発します、我ながらよくやる。


続きます・・・
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