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2019年10月24日09:49

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孤児とはなんなのか 浮浪すると言うこと



自分が子供時代のことを振り返るのは、そのような体験を通してどんな人がいたか自分で感謝を忘れないためであるが、同時にそんな体験が人の心にどのような化学変化をもたらすか、人によってどのように成長したのか、とても興味をもっている。

自分なりに日本の歴史で色々しらべてみた。

古くは平安時代の昔から浮浪児の記録はある。

その多くが飢饉が原因であるようだが、何しろ昔のかなづかいで判読しづらいので、近代の歴史を調べてみた。

大戦直後の空襲の後、いわゆる戦争孤児達が大量発生したらしい。

統計をとったわけでもなく、また専門的な調査をしているわけでもないので、個々の記録を見て自分なりに総括するしかないのだが、7−8才までのまだ身体もできていない戦災孤児の場合、栄養失調で死ぬことが多かったようだ。

9−10才からは地方の農家の手伝いなどをやらされて生き残るケースが多く見られる。

しかし問題はここからだ。

時代も時代で、そのような子供達の心のケアに関心を抱く大人達がそう多くもなく、預け先で苦汁をなめた子供達も多かったらしい。

空腹に耐えかねて電車に飛び込み自殺したケースさえある。

働き口をみつけても、昼夜分かたず働かされて、牛の寝る納屋で寝たとか、造船作業にかり出され大人でもキツい仕事に従事したとか、そんな記述まであった。

ただそんな生活が長く続くとそんな子供達には危険な心の化学変化が起こったらしい。

反社会的な心を持ってしまうのだ。

今でも昔の映像を見ると、タバコを吸っている当時の子供たちの姿があるが、あれはほぼ親を持っていない身寄りを失った子供達である。

大人自体も子供達を保護する心の余裕をもっていなかったし、時々かっぱらいやいたずらをする浮浪児たちは、大人たちにとって犬や猫と同じだった。

子供達はなんとか自分の心を守ろうとしたのか、急激に非行に走ったようだ。

ボス的な子供ができると、それを中心にグループができた。

最初は2−3人から始まり、大きくなると20−30人ということもあったらしい。

大阪や東京といった大都市では彼らの多くが犯罪に走った。

スリや置き引きなどである。

女の子でもスリの名手と言われたのがいるらしい。

実は自分は地元である、倉橋や瀬戸内の島々でもこのような話を聞き取りで調べたことがある。

大量に戦災孤児が生まれた都会では、集団化した悪い子供達に手をやいて、役所でそんな子供達を地方の篤志家へふりわけたこともあったらしい。

地方の農家も戦争で労働力を失っていたときである。
歓待した所も多かった。

しかし、一度非行の道にはしりスリルと快感を覚えたものがそう簡単に日常生活へと戻れるわけがない。

朝早く起きて学校に行き、夕方には教師のオルガンと共に唱歌を歌うような子供達ではなくなっているのだ。

倉橋や瀬戸内に振り分けられた元戦争孤児達はそれぞれ脱走した。

脱走をした後落ち合った彼らは、農家の鶏を襲ったり、農家の真面目な子供をおどしたり、大人顔負けの犯罪を起こしたものさえいたようだ。

物心つく前には、札付きのワルになっている者も多かった。

いつだったか、NHKかなんかの戦災孤児の特集で、栄養失調からか罹災直後、盲目になってしまった人の人生を追ったものがあった。

彼は幸いにして篤志家による手厚い保護をうけ、その後マッサージを学びそれで独立できたようだが、彼はどちらかといえば幸運と言っていい。

銀次郎が戦災の孤児たちを調べてみて、その当時どんなことがあったかわかったとしても、多くの場合その後子供達がどこへいったのか杳としてしれない。

多くは悲惨な人生の歯車の中で、すりつぶされるように人生を終えたようだ。

うろおぼえだが、その盲目の老人が叫ぶようにして言っていたのが今も印象に残る。

「・・好きで孤児になったわけじゃない、当時の大人達には子供を守る義務があったはずなんです・・・。」

自分の責任でもないのに孤児になり、腹を空かさざるを得なかった子供達には、どうやら大なり小なり心の化学変化が起こるらしい。

多くが自暴自棄になり、非行に走る中で、命を落とす者が多かったが、幸運にもやさしい大人に出会い、人生をやり直すことができた子供もいた。

生き残った子供が長じても、過去の自分を恥じているのか、残念ながらそんな人たちの残した著作は多くなく、当時の篤志家などの記述を読むしかないわけだけれど、そんな本を読めば読むほど、

「・・自分は幸運だった」

と思いを新たにしている。
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