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2020年06月06日21:29

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そもそも人間学とは何か 身計:師と友を選ぶ

知古嶋芳琉です。

私が師事した安岡正篤師の講話録、

安岡正篤現代活学講話選集第4巻

『人生の五計』(PHP文庫)から、

今回は、

私たちがいかにして身を立て、

いかに身を持するかという、

「身計」のお話しに進んで参ります。

−−−ここからはその引用です−−−

人生の五計

南宋・朱新仲の教訓

■ 「身計」

生計より入って、

次は「身計」に移ります。

身計とは、

私たちがいかにして身を立て、

身を持するかという心構え、

世に立つ志を計る、

考えを定めるということであります。

詳しく尋ねると、限りない問題ですが、

要約して言いますと、

一番大切なことは、

「師」と「友」である。

「師恩友益」、

師友によらなければ、

いかに天稟(てんぴん)に恵まれておっても

独力ではいかん。

むしろ

天稟に恵まれておればおるほど、

師恩友益を必要とするのであります。

吉田松陰が

有名な

「士規七則」

の中でも、

「成徳達材には、師恩友益多きに居る。

故に君子は交遊を慎む」

と掲げてある。

天稟が良ければ良いほど

友益が要るので、

徳をなし、

材は要するに才であるから、

人間の要素で言いますと、

知能とか技能とかいうものにあたる。

一方は

人間の本質的要素であるところの徳性。

つまり

人間の本質と目的、

両方の要素が

この言葉の中にちゃんと含まれておる。

人間を完成させるのには

「成徳達材」である。

そして

徳を成し材を達するのには、

「師恩友益多きに居る」と言うのであります。

出来が良ければ良いで、

悪ければ悪いで、

むしろ

良いほど

師友というものが大切な要素なのであります。

ところが

この師というものが

容易に得られない。

むしろ

友の方が得やすい。

のみならず

友というのは、師よりも親しい。

直接交わるものであって

どちらかというと、

現実的には若ければ若いほど友が大事である。

師というものは、

そういう大切なものであるから、

昔から

必ず

師弟といって、

相伴うものであるが、

実に得にくい。

いろいろの意味で得にくい。

どこの国の人たちでも

本質的に得にくい。

だから

東洋にはこんな諺(ことわざ)がある。

「経の師は遇(あ)い易く、

人の師は遇い難し。

願わくは左右に在りて

灑掃(さいそう)を供給せよ」。

経の師と人の師と、二つに分けて説いておる。

「経の師」とは

学術的に優れた師のことで、

「人の師」とは

人間的に優れた人格の高い師のことであります。

後漢の末に

郭林宗(かくりんそう)という非常な達人がおった。

これは

『漢書(かんじょ)』

でも出色の伝記があるが、

非常な達人です。

この人に心酔した弟子が

灑掃(さいそう)に任じて、

つまり

拭(ふ)き掃除、掃き掃除の役を承って

親しく教えを受けたということがある。

ちょうど

それと釣り合うというか、

符節を合するような諺が、

さすがに

各国にある。

一番良く知られている、

良く引用されるのは、

ドイツの諺で、

ドイツ人なら

だいたい

学問したほどの人はみな知っておるが、

ちょうどこれに当たる言葉がある。

本の先生、

書物を講義してくれる先生、

知識を与えてくれる先生は

「レーゼンマイスター」という。

本を読むことを

「レーゼ」という。

先生は「マイスター」だ。

そこで

「レーゼンマイスターは得やすい」という。

しかし、

「レーベマイスターは得がたい」とある。

「レーベマイスター」は人生の師、

人間の師である。

知識の師じゃない。

そういう師は得がたいというのだ。

洋の東西を問わず、

人間の思うことは同じであります。

比較して言うならば、

師よりは友のほうが得やすい。

小さい時からみな友だちと一緒に育つんですから。

そこで

友を選ぶことが最も大切であります。

子を育てる親も、

子のために

何よりも注意すべきことは、

師と友を選び

与えることであるが、

まずもって友を選んでやらなけらばならない。

これも常識になっておる『論語』の話だが、

「文を以って友を会す、

友を以って仁を輔(たす)く」

とあります。

「文会輔仁(ほじん)」と対語(ついご)になっておる。

この場合の「文」は

いうまでもなく

文章の文ではなくて、

文化の文である。

つまり

「仁」から出るところの

瑞々(みずみず)しい

鮮やかな成果としての文であります。

この場合の仁は

通俗の仁愛という解釈より

もっと深い意味をもっておる。

宇宙、人生を通じて万物とともに生成・化育していく、

その造化の徳が仁である。

この仁が発して

いろいろの枝となり葉となり、

あるいは

花となり実となるというふうに発展していく。

その根本であるから

仁から出るところの

瑞々しい鮮やかな成果が文というわけで、

文化とか教養と言ってもいいわけです。

それをもって友を会する、集める。

そこで「文会」となる。

山形県鶴岡の酒井藩には

昔から人を集める講堂に

文会堂という名がついておった。

「輔仁」という言葉もまた

いろんな処(ところ)で使われておる。

文を以って友を会す、

すなわち

人間を次第に人間として立派にしていく、

いろいろな教養というもので、

友が集まる、

友が増える。

それによって人間の徳を養っていく。

「文会輔仁」、

あるいは

「会輔」というような言葉も、

「友仁」という言葉も

よく使われている。

「文を以って友を会し、

友を以って仁を輔(たす)く」

となるわけだ。

ついでに

『論語』を見ると、

「益者(えきしゃ)三友、損者三友。

直きを友とし、諒(まこと)を友とし、

多聞を友とするは、益なり。

便辟(べんぺき)を友とし、

善柔を友とし、

便佞(べんねい)を友とするは損なり」

という言葉がある。

友を通して益を受ける、益になるものが三つある。

それから

友を通して損になる、徳を損ずる、人間を損ずるようなのが、

つまり

悪友が

これまた三つあることを説いておる。

まず、

「直きを友とする」

「諒を友とする」

であります。

一つは直、一つは諒、いずれも「まこと」という意味です。

言葉というのは心から出る「まこと」です。

この諒というまことは

「もっとも」と、頷(うなず)けるまことを意味する。

人の話を聞いても、人に話をしても、

聞く相手が、その相手の言葉に

なるほど「もっとも」と頷ける。

これが諒であります。

人間はせっかく対話しても、

心の中でつまらんことを言うなぁ、

間違っているな、

いやなやつだなとか、

いろいろ反応がある。

良心的に「うん、なるほど」と頷ける真実が

諒というまことなのであります。

対話の時代なんて言って、

対話がいやに流行(はや)る。

関連の本もたくさん出て、

雑誌を見るとたいてい対話が載せてあるが、

つまらん対話が多い。

何を言っとるかというようなのやら、

これはどうしても屁理屈(へりくつ)だというものが多く、

人間が本当に対話ができるようになるのは、

これは容易なことじゃない。

我々の人生において、本当に人と会って、

なるほどもっともだと思う、

まこととする、

諒とするような相手は、なかなか得られるものではない。

そういう本当の友に出会うことは

いかにも有り難いことであります。

三つ目の益友は、

「多聞(たもん)とする」であります。

多聞の聞というのは、

ただ聞く、

すなわち

雑識を言うのではない、

ディレッタンティズムではない。

この「聞」は

言うまでもなく

「道を聞く」という意味の「聞く」だ。

「朝(あした)に道を聞けば、

夕べに死すとも可なり」という、

あの聞である。

道を聞く、真理を聞く、教えを聞くという。

そこまで立ち入らなくとも

諒と同じことでありまして、

何かにつけて

いろいろと多く、我々が諒とする、

心を傾け、頷くような教養を多くもっておるのを多聞という。

このように

「直」「諒」「多聞」の友、

これが三つの益友である。

こういう友をもたなければなりません。

○ 「損三」の友

それなら「損三」のほうはどうであろうか。

第一は「便辟(べんぺき)」と書いてある。

便というのは、すなわち便利、易しという。

英語に翻訳して言うならば、

「イージーゴーイング」というのが一番当たっておる。

便利の便、

通りがいい、

そういう

手段的な

方便的な、

あまり責任のないというのが便。

辟(へき)というのは「癖(くせ)」のこと。

偏(かたよ)るという字である。

便辟(べんぺき)というのは、

ちょっと間尺に合うけれども、

大道・本筋ではない

安直、イージーゴーイングな、

考えてみると何か偏っておる、

一理はあるけれども、癖があるという友のことである。

別の一説には、

癖は避である。

本当のことを避ける。

その場ふさぎというか、

間に合わせというか、

いい加減な相槌(あいづち)をうつ。

責任は取らないという

間に合わせの相槌、

その場しのぎの

調子合わせというのが

便辟(べんぺき)であるという。

しかし、

こいつは人間としては相手にして楽だ。

自分に面と向かって斬り込んでこない、

しかるべくあしらうというやつなんだ。

調子を合わせるというやつは。

第二が「善柔」。

芯がない、骨がない、気骨がない、バックボーンがない、

調子が良くってグニャグニャしておること。

この頃、

だいたい

上は国会議員、内閣からして、

学校の教授、それから親たちに至るまで、

はらはらして

なるべく調子を合わせて

憎まれまいと、

事を起こすまいという、

それが平和だなんて考える。

これらはみんな「善柔」であります。

 第三は「便佞(べんねい)」。

佞(ねい)という字は

文字学的にはよく「侫」と書くけれども、

これは間違いであって、

「侫」と「佞」、二つ書き分けなければならん。

どっちかでなければならん。

というのは、

侫のほうは、これは「信」という字を省いたもの。

省画(しょうかく)という。

佞は仁に女だ。

要するにたいした違いはないんで、

まことのある女性という意味。

彼女は真心から言葉を出すから、

受けるほうでは非常に優しい真実のいい感じがする。

うれしい気がする。

やさしい真心の婦人は、聞くほうがうれしくなる表現をする。

挨拶をする。

これが佞。

だから、この頃はあまり使わんが、

昔は自分のことを不佞といったものだ。

これは「お気に入るような挨拶もできません。

ろくな挨拶もできない私です」

という意味です。

本来、

佞というのは、非常に良い言葉だった。

それが、いつの間にか人間の堕落とともに、

言葉も悪く用いられるようになって、

大事な仁、

すなわち

芯がない、

心にもないやつが

うまいことを言う。

これを佞というようになった。

おもねる(=人の気に入るように振る舞う。へつらう)

というような意味です。

それが代表的な意味になってしまった。

この場合の佞は、悪い意味での「便佞」。

人の気に入るように真心を偽って、

心にもなく調子を合わせる。

うまいことを言うのが便佞だ。

この頃の学校騒動を見ていると、

大学教授だとか、あるいはジャーナリストだとか、

ああいう連中の言うことや人間を見ていると、

いかにも便佞をきわめておる。

こういうのが

益三の反対の損三の代表的な友であります。

友を選ぶのに、

この三益と三損とをよく考えて選ばなければならん。

『論語』

なかんずく孔子は

さすが苦労人、

人間通、

それこそレーベマイスターの大先生の言葉だけある。

こういう友を選んでやるのは、

非常に心契(しんけい)、

(契は人の心にかない、法の理に合するので契という)

つまり

自分というものを立派にしていくための修養に

大事なことであります。

○ 絶妙なる「絶交論」

 昔から「交遊論」が盛んである。

六朝時代に

名高い

劉孝標(りゅうこうひょう:462〜521)

という人がいて

『広絶交論』という本を著した。

これは難しくて長い。

これは絶交論を広めるという意味であります。

その『広絶交論』では、

正交の反対である

邪交について五つを挙げておる。

その五つは、

「勢交」:その時代に勢力のある人間との交際。

こういうやつは、

勢力が移り変わると

どんどん離れていってしまう。

「賄交」:いろいろと

賄賂(わいろ)を贈ったり、寄付したり、

何かそういう関係で仲良しになる、交際する。

今日もまたこの賄交に目に余るものがある。

「談交」:言論の交わり、

マスコミに騒がれているタレントなどとの交際。

今日の思想家だとか評論家だとか、

あるいは

外郭団体に属しておる

もっぱら

言論・文章のようなものをもって、

時世に私を立てる、

そういう仲間との交際は邪交であるという。

今日の文壇、評論界、ジャーナリズム、マスコミで、

大いに流行っているのだが

あいつと付き合ったらいいだろうというような交わりは

談交であります。

「量交」:その時世の勢力の度合いなどを量(はか)って

交際する。

始終あいつの株が上がったとか、

この頃は株が下がったとか、

先物買いならあいつだとか、

よくやっておる。

「窮交」:自分の困窮した時に

助けてくれるような人との交際を求めること。

これは一番情けない交際である。

窮して、どこかに助けてくれるやつはいないかと、

あの人のところへ行けば

少し何とかしてくれるかもしれんと、

しょっちゅう自分の窮する話で頼ってくるやつ。

こういうのに限って、少し楽になると、きょとんとして、

一向に寄りつきもせん。

−−−

これが邪交の五つ、

勢交、賄交、談交、量交、窮交であります。

『絶交論』における交際は

特に男の交わりの世界でありますが、

友というものがなければ、

良かれ悪しかれ

男はどうにも動きがとれん。

せっかくなら善交、正交しなければならんのに、

一世をこぞって行われているものといえば、

みんなこういう唾棄すべき交わりである。

邪悪の五交である。

こんな交遊はやめたほうがいいという

朱公叔の『絶交論』に基づいて、

これを敷衍(ふえん)して

劉孝標は『広絶交論』をやった。

しみじみ読んでおりますと、

本当に昔のことか今のことか、

古今一如(いちにょ)で

感慨無量なるものがある。

交わりというものは、

人間、なかんずく、男にとっては

非常に大事なことであります。

−−−引用はここまでです−−−

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