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2020年05月31日17:11

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そもそも人間学とは何か そもそも学問とは何か

知古嶋芳琉です。

 ここでご紹介するのは、

安岡先生が著された

『東洋倫理概論』の現代語訳、

『人間としての生き方』からの引用です。

−−−ここからは引用です−−−

第一編 志尚 早年の倫理

余論 学問

 ○ 造化と人

ここにおいて

我々は

学問というものを

特に早年の倫理に伴う重要問題として

改めて考えなければならない。

『中庸(ちゅうよう:儒教の経典の一つ)』に

厳かに説かれているように

誠は天の道である。

天は、人がなくてはその功、

生成化育の働きをなすことができない。

造化を賛(たす)けて万物を生じ育て、

万世のために太平を開く

(永久に世の中がよく治まり平和が続く世界を開く)のは

人間の本来の務めである。

そこで

造化は

独り

人間を以って

その「明(天道を明らかにする理性の働き)」

としている。

人間はその理性を以ってその「明」としている。

もはや人間は

他の動物のように

真理に暗い

無明(むみょう)に生きることはできない。

衝動に支配されて

やみくもに動くことは許されない。

天稟(てんぴん)の明徳

(天から受けたくもりのない本性、仁義礼智の徳)を

明らかにし、

人間の進むべき道について学ばなければ止まない。

○ 卒(さい)啄(たく)同機

学という機(はたらき)に応じて

教(きょう)という機(はたらき)がある。

学のないところに教はなく、

教のないところに学はない。

禅宗で真実の知見を開いて考えさせる問題、

公案に、有名な、卒(さい)啄(たく)同機ということがある。

(この「卒」は借字で、正しくは口へんが付きます。

教える者と学ぶ者の心の働きが機を同じくするという意味)

牝鶏(めんどり)が卵を毎日抱き温めていると、

やがて孵化の機が熟するとともに

雛が中からコツコツと殻をつつく。

それが「卒(さい)」である。

すると

母鶏(ははどり)がこれに応じて外から殻をつついてやる。

これが啄(たく)である。

卒(さい)啄(たく)同機(内外から同時に殻をやぶる)の下に

孵化が行われる。

『学記(がくき)』に

「教学(きょうがく)相長ず」

(人に教えることと人から学ぶことは互いに補いあって

自分の学問を進歩させる)とか、

「教学半ばす」

(教えることはその実半ば学ぶことであるの意)

ということがある。

○ 学問の根本義

その学問の根本の意義は、

純真な自己の内心の声に耳を澄ますとき、

何人(なんぴと)にも最も明瞭である。

我々は、何がために学を欲してやまないのか。

知識才能を啓発するためであるのか。

これに対して純真な自我は答える。

否、我々は論理的機械でもなければ、

世渡りの道具でもない。

知識や才能は我々の枝葉に過ぎないと。

それでは功名や富貴のためであるのか。

いかなる愚か者も

心中につぶやく、

否、どう考えてもそうではないと。

それでは何のために学ぶのか。

ふたたび純真な自我は答える。

何のためでもない。

学ばなければならないから学ぶのだ。

学ばずにはいられないから学ぶのだ。

この我れ、造化の明徳が、いやが上にも光明に、

雄々しく偉大に、

崇高にならなければならないのは

絶対的な命(めい)だ。

われは

このような命(めい:天命)を

本分(性)とするものだ。

この本分に率(したが)うのが道、

この道を開拓するのが、

学問の根本となる重要な意義だと。

○ 性命

功名富貴や、知識才能に対して、

我々のこういう本質的なるはたらきを

特に徳、

あるいは

前述の言葉を結んで

性命といい

その徳に道を合わせて道徳といい、

真我、真実の

我が道徳に関してはたらくのを良心

あるいは道心という。

すなわち

学問の第一義は

言うまでもなく

道心の長養(ちょうよう)でなくてはならない。

道徳の発揮でなければならない。

平たく言えば、

純真な自己に生きようとするのが

学問の第一歩なのである。

孔子が

「古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にす。

今の学ぶ者は人の為にす」

と警(いまし)め、

親鸞聖人が

「親鸞は父母の孝養のためとて

念仏一遍にてもまをし(申し)たることいまださふらはず」

と説いたのも、

思想こそ違っても、

煎じ詰めれば

ここの道理に他ならない。

人間はこの真我に由らないで、

小我、自分一人にとらわれた狭い我に執着し、

物欲にも曳かれている以上、

いかに認識論を細かく詳しく極めても、

いかに科学や宗教の奥深い境地に達しても、

結局のところ

痴人の夢である。

○ 学問の堕落

ところが

久しい間、

とかく本能のままに物欲に支配され、

孟子のいわゆる放心(ほうしん:真我、良心の忘却)

の生活を深めてきた人間は、

学問についても

甚だしく本来の意義を誤り、

いつの世でも

純真な自己を洗練し、

完成することは棚に上げて、

ひたすら地位や黄金を獲得するのに

最も有利な手段としてのみ学問をする

悪習を養成した。

○ 陸象山白鹿洞書院講義

かつて

朱晦庵(しゅかいあん)を訪ねて

白鹿洞書院(江西省の櫨山の五老峰の下にあった書院、

学校)に遊んだ陸象山は、

求められるままに院の学子たちに

『論語』の

「君子は物事を道義を基準として考え、理解し、

小人は利害を基準として考え、理解する

(君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る)」

の一章を講義して言った。

「人の喩(さと)すところは

その習うところ、

繰り返し真似て身につけるところによる。

習うところはその志すところによる。

義に志すか利に志すかによって、

ついに君子となり、小人となるのである。

だから

学者にとって一番気をつけなければならないものは

志である。

世は科挙(官吏登用試験)で

士の資格を持つことだけを求めること久しく、

名高い学者も高位高官の人々も

みなこれから出ているために、

今の士であるものは

おのずから受験勉強を免れることができない。

しかし、試験の得失は、

その技量と

試験官である有司の好き嫌いがどうかが問題となるので、

試験によって

君子と小人とを明らかに区別するようなことはない。

この卑(いや)しむべき

功利の観念を脱却することができなければ、

たとえいかほど聖賢の書に親しんだところで、

志の向かうところは聖賢と反対である。

そこで

試験に合格すれば、

また出世や利益や扶持(ふち:俸給)といった

物質的な利益ばかりを考え、

結局 利 以外に、何ものもない」と。

その痛切な講話には、

席に列(つら)なった人々も思わず汗ばみ、

朱子自身も

すでに秋冷の候であったにもかかわらず、

思わず扇(おうぎ)を動かしたということである。

○ 王陽明抜本塞源論(おうようめいばっぽんそくげんろん)

王陽明は

さらに深刻に、

「世の功利的堕落と相まって、

学問がますます本来の意義を失って

単なる生活の方便に過ぎなくなり、

自然とさまざまな異を立て、

奇抜さを争う主義者が次から次へと生まれ、

学ぶ者としてみれば、

実際

千にも万にもと、

あまりにも多くの小さな道が分かれて、

適(ゆ)くところが分明(わか)らない。

まるで

色々の芝居や雑技・軽業(かるわざ)・曲芸などの

見世物の場所に入ったも同然、

あたりの様子や周囲の思惑を気にして

左を見たり右を見たり

決断できずに迷い。

それに疲れて空しく精神を消耗してしまう。

たまたま真の学を説く者があっても、

彼らは内心でその功利的に見ての

回りくどさを嘲笑し、

あるいは敬遠する。

要するに、

功利の毒が幾千年の間に

人の心髄(しんずい)にまで浸(し)み透って、

ほとんど人間の根本的な傾向になっている。

これが社会の最も本源的な病弊である。

この本(もと)を抜き、

源(みなもと)を塞(ふさ)がなければ

(抜本塞源:ばっぽんそくげん)

人間は救われない。

そうして

よくこの病弊の本を抜き

源を塞ごうとする者は

真に豪傑の士でなければならない」と、痛烈に論じている。

誠にこの功利のための学問は、

まず第一に

若人(わこうど)の純真な生命を毒し、

思惟(しい)や情意を荒(すさ)ませる。

その結果、

知識階級に低級で狡猾な、

しかも誤魔化しの巧い利己主義者ばかりが殖え、

それらの人間が

追々あらゆる社会的地位を占めてゆくために、

社会生活の全般にわたって

段々「純真な人間」の活動が阻(はば)まれて、

狡猾な動物、便利な器械が横行するようになる。

知識や技術や免状資格が幅を利かせて、

人間の力量(物事を成し遂げる力、能力の程度)や

徳操(とくそう:固く守って変わることのない道徳心)などは

度外視して問われなくなる。

これは人間が個人的精神的に死んでしまって、

組織の中で化石となってしまわないかぎり

堪え難い問題であるとともに、

このような社会はやがて遅かれ早かれ、

日に新たに、また日に新たにの造化から

捨て去られる日が来なければならない。

これすなわち社会革命である。

(『禅と陽明学』より引用)

○ 真の社会と人の教養

真の社会はあくまでも人間生活の天地でなければならない。

人々、各々、人となり、人を知り、人を愛し、

人を楽しむ社会でなければならない。

イギリス人の一つの自慢に、

フランス人はとかく人について

何の試験に及第したかというような

資格免状を問題にし、

ドイツ人は何の知識を持っているかを論じ、

アメリカ人は何ができるかというような

才能を訊ねるのに対して、

イギリス人はいかなる人物かという

本質を問題にするというが、

イギリス人のこの心構えや考え方は、

実に最も東洋人の主眼とするところである。

ところが、

資格や技能や知識ならば

比較的容易に我々の認識の対象となるけれども

人格はなかなかそうはならない。

まず我々に不純な功利的な意志や、

低級な美的要求や、

あるいは

浅はかで薄っぺらな知的評価心があれば、

充分に人を察知することはできない。 

たとえば、

芸術を観照(かんしょう:本質を見極める)する場合

(対象を客観的に冷静に見つめ、

その本質を明らかに察する態度)、

それに打ち込み

没我(ぼつが)になって、

純粋に対象全体をまとめて把握してはじめて

対象に生命を感じ

体得し、

美醜を発見することができるように、

人を識(し)るのにも

虚心坦懐(きょしんたんかい:すなおでこだわらない、

さっぱりとした気持ち)

その人に接しなければならない。

そうすれば、

その人物と融(と)けあって

一つになった状態、

渾然(こんぜん)たる冥合(めいごう:知らず知らず

一つになること)の中に、

その人物の真偽、善悪、美醜を識ることができる。

その真偽、善悪、美醜は、

つまり

それが出てくる元(もと)になる

人格的生命(性命(天から受けた持ち前))の

肯定や否定であって、

そこには浅い深いの感じが伴う。

美味や好色は

我々の感覚を強く刺激するけれども、

それは

人格の奥妙(おうみょう:奥深くてすぐれたところ)

に触れる深さがない。

結婚は恋愛の破産と言われるのも、

この点から考えて

皮相(うわべだけ)ながら一理がある。

恋愛はより多く人格的であるが、

結婚は往々それを感覚的に堕落させるからである。

しかし、

それは

もとより結婚の根本となる重要な意義ではない。

君子の道は

その始まりを夫婦に造(いた)すと、

『中庸(ちゅうよう)』に説いているように、

結婚は

人を着実な道義的生活に入らせる門でなければならない。

このように、

その場合、

自分の人格の奥妙に触れる程度によって

その価値を悟り知ることができるが、

同時にまた自分にそなわった

含徳(がんとく:徳の有無・高低の状態)が

どうであるかということも

反省しなければならない。

自分の人格の涵養が浅薄なときは、

到底深い人格的生命、性命に共鳴することはできない。

燕雀(えんじゃく:燕や雀のような小鳥:小人物のたとえ)に

鴻鵠(こうこく:おおとりなどの大きな鳥:

大人物・英雄などのたとえ)の志は分からない。

英雄でなければ英雄を知ることもできない道理である。

そこで

人を識るということは、

結局のところ

自分を奥深く探って知ることであって、

自分自身の修養、学問のないところに

人を知り、人を用(もち)うることの行われるわけはない。

○ 人と環境

人は

絶えず

自己の性命に適(ふさわ)しい環境を作り、

そこでまた成長するのである。

環境の堕落は、

そこに住む人間それぞれの罪責であり、

棄てておけば

人間は自ら造ってきた環境の中に

ますます自己を堕落させ、子孫を滅亡させる。

これを救済するには、

どうしても

その環境の中の各人が

ただ一つ日新(ひにあらた)の創造力を持つ

各自の道心、

純真な自我の生活に目醒めるほかはない。

すなわち、

いかに回りくどく迂遠なようでも、

真の学問(これに応ずる教育)に

行き着くほかはない。

そうすれば

富者も自然、物欲の放縦に恥じないわけにはいかない。

それと、ともに、黄金万能主義の悪夢は醒め、

奢侈(しゃし)と搾取とは改まる。

それは

民衆に

最も呪うべき

物質的な羨望、嫉妬、階級的反感による闘争を

沈み衰えさせて、

協力して働く道にいそしますことができる。

政治家も

もはや

国家機関を悪用して

私利を謀(はか)り、

個人的な利害や縁故による私党をつくり、

国家の獅子身中の蟲となる

(体内にいる虫が、内から獅子を食い殺す)のを恥じ、

民衆のために

国家のために

真個の為政者であることを

光栄とするに至るであろう。

彼らは

もはや

自己の営利に便利な

走狗(そうく:走り回って主人の用を足す猟犬、

人の手先となり、

命令のままによく働く人のたとえ)や

器械を愛用しないで、

真の人物を尊重するであろう。

もちろん、

世の父兄も、

もはや

その社会的な虚栄心と物質的な打算とから、

子弟を教育することを

改めないではいられないであろう。

そこに

ますます

純真な学問(教育)は発達し、

真正な社会が実現する。

これをいたずらに空想であると見て、

不世出の英雄宰相の力、

法令制度の変革に期待する者は、

なおいまだ道徳の何であるかを覚(さと)らないで、

社会の創造的な真理をも理解しない者である。

○ 猶興(ゆうこう)的覚悟

孟子の言葉に、

「文王を待って後に興(おこ)る者は凡民なり。

かの豪傑の士のごときは

文王なしといえども猶(なお)興(おこ)る」

がある。

○ 学問の必要手段

それでは

真の学問は

先ず

何によるべきか。

それこそ

既に述べたように

善き師、活きた人物の感化に勝るものはない。

次に、

生来の才能・人格を

鍛え上げられた人格から出る

直観的な智慧(徳慧(とくけい))の結晶である

諸(もろもろ)の書物、

ことに

古典である。

第三章に述べた我々の英雄哲人に対する私淑は、

ここにおいて

両者の気持ちがぴったりと合う

善美の極(きわ)み、

卒(さい)啄(たく)の妙を現実のものとするのである。

これ等に対して、

抽象的一面的な理論ほど

人物を教養する力は薄いのである。

○ 直観と概念

およそ

直観による抽象に応じて生ずるものは概念であって、

直観は概念の天地である。

諸(もろもろ)の概念的知識は

この天地である直観、

したがって

体験が豊潤(ほうじゅん)でなければ

幸福に育つことができない。

それに

直観の伝えるものは生きた世界であるが、

概念の示すところは抽象的構成であるから

仮定的一面的であるのを免れない。

そこで

直観と概念とが相応じて発達しないで、

概念ばかりが与えられると、

人間が薄っぺらで、人情や真実味がなく

内容が乏しいものになったり、

偏った観察や

矯激な(きょうげき:極端に過激な)行動に

逸(そ)れたりするようなことが起こってくる。

ところが

教育者の一般的傾向も

特に

近代

甚だしく

人の子を教える方法や理論ばかりにかたより、

自ら人格を涵養し、

学問や技術などについての深い理解や

すぐれた技量に裏打ちされた智慧を

積みたくわえることを怠った。

こうして

道徳や宗教や政治の大道が廃(すた)れながら、

倫理学、宗教学、政治学的理論は盛んに行われ、

心田(しんでん)の開拓

(心を田畑にたとえたもの。道心を培(つちか)うこと)は

忘れて、

教育学や教授法の論議が横行しているのである。

もし、

道心の培養が

根本から、

そして

始めから終わりまで

一貫して行われるならば、

初めて

純然たる理論的学問、

政策の研究も

その意義と効力を発揮してくる。

否、それらの学問研究は

道心の発達と社会的体験とに応じて、

必ず

木の枝が伸びるように

四方に伸び通じてくるものである。

○ 修徳の学と時務の学

詳しく言えば、

学問は

早年より中年に進むに随(したが)って

修徳の学(内聖の学<心に高い道徳性を修める学問>)に

時努の学(時々の問題について身に付けなければならない

学問)

(外王の学<外形は王者の権威を身につけること>)を

加え来るべきものであって、

やたらに

始めと終わり、

前と後ろを誤ってはならない。

○ 新世界文明の意義

よくよく考えれば、

古来の東洋文明は

近代西洋文明の摂取によって、

徳を修めることを基本とする

修徳本位の学問に

新たに時務の学問を加え、

それによって

まさに

東洋中年の文明(礼楽)を実現しようと

努力しつつあるものと言うことができる。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 学問について、

これほど精密に、

しかも、

現在もなお根深くはびこる

根源的な悪弊を、

極めて鋭くご指摘された論文は

他に類を見ません。

従って、

いかなる立場の者であっても、

これを無視することは許されないのであります。

なぜならば、

「人の振り見て我が振り直せ」

ということわざがあるように、

誰もが、

本人は何らの意図がなくとも、

教師の役になったり、

反面教師にされてしまうという、

過酷な現実があるからです。

こればかりは、どんな馬鹿でも逃げ場がありません。

どんなにおとなしくして

良い子の振りをしたとしても、

心の中ではどんなに恐ろしいことを考えているか、

分かったものじゃあないと思われるからです。

しかも、

無口であれば、無口であるほど、

怖がられ、気持ち悪く思われるのです。

もう、こうなったら手が付けられなくなります。

人の口に戸は立てられないもので、

あらぬ疑いをかけられた上に、

更に

尾ひれがついて、

噂が噂を呼び、

とんでもない化け物にされてしまうのが

世の常というものなのです。

かく言う私だって、

陰では

どんな悪口を言われているか、

分かったものではありません。


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