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2020年03月30日07:58

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【そもそも人間学とは何か】 人の上に立つ者の心得

知古嶋芳琉です。

引き続き、

私が師事した安岡正篤師の講義録、

『人物を創る』「大学」「小学」(プレジデント社)の中から、

この本の後半の、

『小学』をご紹介しています。

−−−ここからは引用です−−−

処世の根本法則 小学

第一章 独を慎む

4、 人の上に立つ

○ 人の上に立つ者の心得

−−−原文−−−

曲礼(きょくらい)に曰く、

敬せざることなかれ。

厳若(げんじゃく:おかしがたく、おごそかなさま)として思い

辞を安定し、

民を安んぜんかな。

傲(おごり)は長ずべからず。

欲は従(ほしいまま)にすべからず。

志は満たすべからず。

楽しみは極むべからず。

賢者は狎(な)れて而(しか)も之を愛し、

愛して而も其の悪を知り、

憎みて而(しか)も其の善を知り、

積みて而(しか)も能(よ)く散じ、

安きに安んじで而(しか)も能(よ)く遷(うつ)る。

財に臨みて苟得(こうとく)するなかれ。

難に臨んで苟免(こうめん)するなかれ。

狠(あらそ)うて勝を求むるなかれ。

分ちて多を求むるなかれ。

疑わしき事は質(さだ)むなかれ。

直くして而(しこう)して有するなかれと。

(『礼記』曲礼上篇)

−−−原文の解説−−−

<『礼記』の曲礼(きょくらい)篇にいう、

すべてに敬(つつ)しみの心を持続せよ。

厳(おごそ)かに思い、

落ち着いてはっきりと意志表示をし、

万民を安んじたいものである。

人の上に立つ者は、傲慢な心を増長させてはならない。

欲望を欲しいままに遂(と)げてはならない。

いかなる欲望もとことんまで満足させてはならない。

楽しみも究極まで追求してはならない。

賢者は親近しても敬の心を失わず、

畏敬しても愛情を忘れず、

愛する者にも悪を認め、

憎む者にも美点を認める。

財貨を蓄積してもよく人に散じ、

安穏な境遇に安んじていても、

いつでも変化に即応できねばならない。

財貨に対しては無原則にむさぼってはならない。

危難に遇ってもむやみに逃避してはならない。

争いごとにも強引に勝つことばかり求めてはならない。

物を分配するに当たっては、

自分だけ多く取ってはいけない。

疑わしいことは安易に断定してはいけない。

人と事を論ずるに、

率直に意見を述べるのはいいが、

しいて自説に拘泥してはいけない>

曲礼は『礼記』の中の一篇。

浅はかな人は、

こんなことを一々苦にしておれば何もできないと言うが、

それは大きな間違いであります。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

この節の最初に出て参りました戒め、

『敬せざることなかれ』は、

先生の解説では

『すべてに敬(つつ)しみの心を持続せよ』

となっております。

しかし、

この

【敬(つつ)しみの心を持続】させることほど

難しいものはありません。

なぜならば、

中国の古典に表記される

物事の順番というものは、

まず最初に、

最も重要かつ肝腎なことで、

最も困難なものを配置することが、

慣習として守られているからです。

それに、

出典である『礼記』は、

「周から漢にかけて

儒学者がまとめた礼に関する書物を戴聖が編纂したもの。

全四十九篇。

唐代以降、五経の一つとして尊重された。

四書のうちの『大学』と『中庸』は

もともと本書の一篇である。

(致知出版社のホームページの引用)」

とも書かれておりまして、

『大学』も、

『小学』も、

遡れば出典は同じなのであります。

そこで、

ここでの最も重要で困難な

『持敬(じけい:中国、朱子学の修養法。

居敬、持敬、主敬などともいう。

敬とは本来、天、神々、君、父母などに対する

敬虔でうやうやしい気持、

ないしは態度をいうが、

朱熹(子)は

これを

自己の自己に対する心のあり方に転化させ、

自己変革の修養法として確立した)』

について、

安岡正篤師が、

まだ東京大学の学生であった時に、

卒業記念として出版された

『王陽明研究』というご著書がございます。

卒業を間近に控えた学生時代というのは、

世間知らずのくせに血気盛んで、

しかも生意気盛りという、

人間の一生のうちで

最も傲慢になっており、

極めて危なっかしい時期であります。

そんな、

最も危なっかしい時期に出版されたご著書の

『王陽明研究』の「新序」の中に、

この『持敬(じけい)』という言葉が出て参ります。

参考までに、

その「新序」の一部を引用致しますと、

−−ここからは『王陽明研究』の「新序」の引用です−−

『さすがに懐かしい書である。

まるで若かりし頃の写真を見る感じがする。

高等学校・大学時代、

私は熱烈な精神的欲求から、

悶々として

西洋近代の社会科学から、

宗教・哲学・文学などの書を貪り読んだ。

ダンテ、ドストエフスキー、トルストイ、ニーチェ、ワイルド、

マルクスなども耽読(たんどく:読みふけること。

夢中になって読むこと)した。

セネカやモンテインやパスカル、

アミエルなども好んで渉猟(しょうりょう:

たくさんの書物をあさり読むこと)した。

しかしどうも不満や焦燥の念に駆られ、

深い内心の持敬や安立に役立たず、

いつの間にか、

やはり

少年の頃から親しんだ

東洋先哲の書に返るのであった』

−−ここまでは『王陽明研究』の「新序」の引用でした−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

この一文から読み取れることは、

安岡正篤師は、

学生時代から、

内心の深いところにまで、

この『持敬や安立』を求めておられたという、

驚愕すべき事実であります。

普通の学生であれば、

末は博士か大臣かとおだてられながら、

自分でもその気になって

大学院に進学したり、

国家公務員試験とか外交官試験を受験し、

合格して順調に昇進・昇格して、

閣下と呼ばれる立場になりたいという夢を抱くものですが、

安岡正篤師は、

その「新序」の続きを引用致しますと

−ここからは『王陽明研究』の「新序」の続きの引用です−

『その頃、

東洋の先哲とか、その書など、

今も大して変わりはないが、

要するに

前世紀の遺物のように見なして、

若い学生たちはほとんど顧みる者もなかった。

私が漢籍などを読んでいると、

異端というより、むしろ奇物変人視されたものである。

それでも私は意としなかった。

「かつて極めて少数の者にしか通じそうもない学問を、

何のためにそう熱心に没頭するのかと問われて、

私はこう答えた。

私には少数で十分だ。

一人でも十分だ。

一人もいなくても十分だと」。

「至善は外界からの手を求めない。

内部から培われ、

それ自体から出でて全きものである」と、

これはセネカの教えであるが、

私もそう信じた。』

−ここまでは『王陽明研究』の「新序」の続きの引用でした−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

ここでも、またまた出てきたのが

『大学』で学んだ三綱領の3、

「至善にいたるに在り」の

『至善』であります。

安岡正篤師の『大学』の講義の中から引用すれば、

『在止於至善。

「止」を「とどまる」と読んでは拙(まず)い。

「至善にしするに在り」。

これが耳慣れないというならば、

「至善にいたるに在り」

と読む方がまだよいでありましょう。

いったい、

「止」という字は

説文(せつもん)学的には足形である。

下の 一は踵(かかと)、上は足の指の象形である。

故に

歩いて行って、

あるところまで進んで行ったその跡である。

これは到達を表わす。

達することを表わす。

安立を表わす。

「止まる」には相違ないが、

「停する」のは「止まる」ではない、

「到達する」の「止まる」である。

だから

「いたる」と読んだ方がよろしい。

「至善」というのは、

いうまでもなく

悪に対する善の“相対的な善”ではなくて、

いわゆる

アウフヘーベン(止揚)という言葉があるが、

とにかく

そういう

「“絶対的な善”に到達するに在り」

というのであります。』

とありますが、

この解説の中にも出て参りましたのが、

『王陽明研究』の「新序」の中にも出てきた、

『持敬や安立』の『安立』という言葉です。

この言葉の意味を調べておりますと、

『「安立・案立(読み)あんりゅう」

々佑┰个靴討泙箸瓩襪海函

(「あんじんりゅうみょう(安心立命)」の略)

心やすらかで動かないこと。

(精選版 日本国語大辞典の解説)

とありまして、

さらに

この

(安心立命:あんじんりゅうみょう)の意味を調べますと、

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説では、

「あんしんりつめい」とも読む。

安心は仏教用語、立命は儒教の用語。

すべてを絶対のものにまかせて、心が動揺しないこと。

とありますし、

デジタル大辞泉の解説には、

「人力を尽くしてその身を天命に任せ、

どんな場合にも動じないこと。

あんしんりつめい。」

と出ております。

また、

大辞林 第三版の解説では、

「「あんじんりつめい」

「あんしんりつめい」

「あんじんりゅうめい」とも〕

信仰によって心を安らかに保ち、

どんなことにも心を乱されないこと。

初め儒学の語であったが、

のちに主として禅宗の語として使われ、

その後、広く使われるようになった。」

とありまして、

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によりますと、

安心は仏教語で、

安らぎを得、

落ち着いた穏やかな心に達した

究極の境地をいい、

ニルバーナnirva(涅槃(ねはん))と称した。

立命は、儒教の『孟子(もうし)』のことばの転用で、

天命による本性をまっとうすること。

人力を尽くして仏道を実践し、

わが身を仏法にゆだね、

なにものにも心を揺るがされない

安定した心のあり方をいう。

「あんじんりゅうみょう」とも読み、

安身立命とも書く。

[石川力山]、

とありまして、

精選版 日本国語大辞典の解説には

「儒教で、人力を尽くしてその身を天命に任せ、

どんな場合にも落ち着いていること。

天命を知って心を平安に保ち、

むやみに心を動かさないこと。

仏教では、「あんじんりゅうみょう(安心立命)」と訓み、

主に禅宗で、

悟りの境地に到達して

真の心の安らぎを得、

主体性を確立すること。」

とのことであります 』。

安岡正篤師が使われた

『安立』という、

たった一言の言葉に秘められた意味合いの

奥深さや広がりに加えて、

精密さまでもが、

桁違いに違うことが

お分かりいただけたでしょうか。

お話の筋が

『持敬や安立』の『安立』に偏ってしまいましたが、

本来の狙いは

もちろん

『持敬』の方です。

『すべてに敬(つつ)しみの心を持続せよ』

と言われても、

【敬(つつ)しみの心を持続】させることほど

難しいものはないからでありまして、

あのアメリカの

カリフォルニア臨床心理学大学院の学長であった、

ジョン・オニールが、

彼の著書

『成功して不幸になる人びと』

の中で、

【敬(つつ)しみの心を持続させること】が

いかに困難なことかを、

詳細な実例の数々を伴って解説しておりますので、

是非とも、

こちらも

熟読玩味されますよう、

お勧めする次第でございます。

余計なお話が長くなってしまいましたので、

もう一度、

この文章の最初から、

何度でも

熟読玩味されますよう、ご案内いたします。

なぜならば、

繰り返し反復の訓練によって、

癖になるまで、

細胞のレベルに至るまでたたき込むべき、

成功法則のメニューが

ずらりと並んでいるからです。

こんな簡単なこともできないようなら、

まだ

小学校も卒業させてもらえないと

覚悟を決めることです。

何しろ

ここは

『小学』の世界なのですから。


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