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2019年12月11日15:22

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【そもそも人間学とは何か】 71歳の爺さんのくせに、ハイデッガーの何とかを研究しているとは(後半)

知古嶋芳琉です。

 前半につづく、後半の始まりです。

やっぱりなあ、と思ったのが、

研究者として

先生が書いた本を読んでいて、

どうにも分からないところは無視しちゃえ。

というところであります。

そんなことならオレだって、というご同輩もいるはず。

学生時代を思い出しますなあ、なのであります。

私は

いまだに

『仁』とか『道』なんかの概念が、

今一つ腑に落ちないものだから

自分が書く文章の中に、

こういう言葉を入れるのが憚られることもしばしば。

 泣き言はここまでとして、

ここからは講談社のホームページの引用です。

−−−

結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか

(前半のつづき)

■「孤独」を体現する生き方

Q: キリスト教を下敷きにはしているけれど、

とくにその「信仰」は前提としない

一般的な話になっていると。

A: さっき

「各自は

それぞれが

『自分だけの』現実に直面しているのであって、

現実問題として、

その『現実』に対応することができるのは

私以外にはいない」

という話をしたでしょう。

それをあなたは「シビアな現実認識」とおっしゃいました。

でも

シビアというより

重たいんですよ、

こうした「現実」に直面させられていること自体が。

だから

この重荷から「逃避する」のが、

非本来性の根本的な意味なんです。

なにごとでも、

判断は他人に委ねた方が楽でしょう?

組織に所属していれば、

「上」の命令に従っていればいいわけだし。

もちろん、

それですべてがOKだというのは幻想にすぎないのですが、

あまりにも自分という存在が「重い」ので、

そういった気休めに、

ついしがみついてしまう。

これが「非本来性」、

つまり、

他者に埋没した「ダス・マン」というあり方です。

Q: 非本来性はまあそれでいいとして、

「本来性」に則った生き方は、

結局、どうなるのですか?

A: 今言った非本来性の逆の生き方です。

自分だけの現実に直面させられているという

その重荷をきちんと真正面から引き受けること。

「ひと」に判断を委ねるのではなく、

自分のあり方を自分で責任をもって選択していくこと。

「おのれ固有の存在を気遣う」

とハイデガーが言うのはそのことです。

キリスト教だと

「神に忠実に」というところが、

ハイデガーでは「自分の存在に忠実に」

──となるわけです。

Q: じゃあ、結局は「俺様は正しい」。

俺様バンザイみたいになっちゃう?

A: それは短絡してますよ。

先ほどお話しした、「自分」、

「私」の本質を思い出してください。

自分だけの現実に直面させられて、

自分の責任で

おのれのあり方を選び取っていかなければならない、

というのが「私」の本質でした。

だから

「自分の存在に忠実に」とは、

今述べたような自分のあり方を直視して、

そこから逃避しないことになるわけです。

思い切って言うと、

孤独であることを恐れないというか、

孤独を引き受けるという感じでしょうか。

「嫌われる勇気」、というと言い過ぎかな。

でもまあ、ひとに嫌われることは確かでしょう(苦笑)。

Q: それで思い出したのですが、

『存在と時間』が出版されたのが1927年でした。

第1次世界大戦で、人類は初めて大量死を経験した。

それまでは科学万歳、

人類の進歩万歳でやってきたのが、

それがとんでもない間違いだったことに初めて気づいた。

それまで前提にしていたものが

すべてガラガラと崩壊してしまった…。

つまり、

今現在のわれわれの

「感度」が生まれた時代だったのですよね。

A: よく大戦間のこの時代は「不安の時代」と言われます。

こうした「気分」の中から

ファシズムやナチズムが生まれてきたことも、

しばしば指摘されるところです。

『存在と時間』で

ハイデガーが「不安」を分析しているのは有名ですが、

まさに「不安」とは、

ハイデガーによれば

日常的世界が崩れ落ちて無意味になってしまった、

寄る辺ない「気分」とされています。

Q: そういう時代の「気分」に、

ハイデガーが投げかけた「正しい生き方」への問いかけが

「刺さった」のでしょうね。

A: まさにそうだったんです。

第1次世界大戦後に

それまでの国家体制は崩壊し、

キリスト教の無力も露呈され、

「西洋の没落」が意識されるようになった。

ハイパーインフレで

お金の価値がなくなるということもあった。

先ほどあなたがおっしゃったように、

人々が

それまで

信頼していたものすべてが

崩れてしまったわけです。

これまで「ある」と思っていたものが、

実は「無」でしかなかった。

一体「存在」とは何を意味するのか

──そう捉えると、

ハイデガーの「存在の問い」は、

それ自体が

生の新しい基盤を求める

切実な問いだったことがわかります。

■ なぜ「禅」にも通じるのか

Q: で、結局のところ、

ハイデガーの言う「存在」とは、何だったのですか?

A: 「何かがある」というとき、

普通、

その意味は、

その何かが目の前に

「見えるものとして」

「ある」ことだと思いますよね。

でもハイデガーは、そうではないと言うんです。

Q: たしかに普通はそう考えると思うのですが、

それが違うとなると、どうなるのですか?

A: 例を使って説明しましょう。

たとえば、1個のお茶碗について、

それがお茶碗であると言えるのは、

私がそれをお茶碗として使用するからです。

仮にそれを誰かに投げつけるために使うとすれば、

それは茶碗として存在しては、いない。

単にお茶碗の形をしたものが目の前にあるだけです。

お茶碗がお茶碗として存在するためには、

お茶碗を適切に使用することによって

それを「あらしめる」ことが必要だ、

そうハイデガーは言うわけです。

Q: あるものがそのものとして「ある」とは、

そのものとわれわれとの関係性のうちでのみ成り立つ

事態である、という感じでしょうか?

A: まあそんな感じです。

何かが「ある」とは、

それが単に目の前にあることではないんです。

そうではなく、

そのものにふさわしい態度を取ることによって、

そのものが

初めて

そのものとして

「ある」ことができるようになる。

つまり

私がお茶碗を適切に使用することによって、

初めて

お茶碗は

お茶碗として

「存在」することになるわけです。

お茶碗をお茶碗として使うことは

とくに珍しいことではありません。

しかし、

お茶碗を本当に「あらしめよう」と思えば、

究極的には茶道になるかも知れない。

つまり、

何かをそのものとして「あらしめる」には、

われわれの側にも

しかるべき修練が必要になるのです。

Q: ものの「存在」は、

ただそれをボーッと見ているだけでは

理解できないということですね。

A: そういうことです。

さっき

本来性について説明したところで、

われわれは自分とは異なる「存在」を負わされていて、

それに対してしかるべき関係に入ることを

つねに求められている。

本来性とはまさにそうした「負い目」を直視すること、

他なるものの「存在」に対してしかるべき仕方で応答する

「覚悟」を意味しているのです。

Q: 生きることがそれ自身、

さまざまな他なるものの「存在」に対して

よりよく応答すること、

つまり

それを

「あらしめる」ための終わりなき努力なのだというところは、

日本人の「道」の考え方にも通じるところがありそうです。

A: その点は以前、

このサイトに掲載された拙稿

(「なぜ日本人はこんなにハイデガーが好きなのか、

その「もや」を晴らす」)

でも指摘しておきました。

Q: ハイデガーの非本来性と本来性の議論が、

煩悩によって支配された

「無明」の生と、

それを脱した

「悟り」という仏教の教えに似ている。

そうした点も、

日本人の

ハイデガー愛好の理由になっているのではないか

という話でした。

A: ええ、さっきもお話ししたように、

キリスト教の教えから

「神」や「来世」といった

超越的な要素を徹底してそぎ落としていった結果、

もともとそうした超越的存在を認めない仏教に、

構造的に近くなったのではないでしょうか。

Q: 「本来性」だ、「存在」だと言っても、

突飛なこと、

あるいは

凡人には理解しがたい

深遠な真理を論じているわけではなかったんですね。

ハイデガーも

日常に即した、

われわれにも理解できそうな問題を

取り上げていたんだということは、

なんとなくわかった気がします。

でもそういえば、

『存在と時間』というタイトルなのに

「時間」については

これまでまったく話題になりませんでした・・・。

■ 結局、哲学はなんのために在るのか

A: 実は『存在と時間』では、

「時間」については

ちゃんと論じられていないんです。

『存在と時間』は未完の著作で、

「時間」を正面から取り上げることなく

途絶しました。

Q: ハイデガーは

結構いい加減な人で、

『存在と時間』を刊行する数年前から

論文を書く書くと言いながら、

全然書けなくて、

やっと本を出したら

それも尻切れトンボになってしまったのでした。

A: いい加減というか、

大学でのポストを得るために

何が何でも業績を出さなければならないという

外的圧力と、

最初にもお話しした、

自分の問題にしている事柄を

できるだけ厳密に語りたいということの間で

つねに葛藤があったのでしょう。

『存在と時間』も

最初の200ページ分を印刷した後、

残りの原稿を書き換えたりしています。

それで

最初は一巻本のはずだったものが、

分量が増えて

上下二巻に分けることにした。

しかも

下巻は未完に終わって、

「時間」については

きちんと論じられずじまいになったんです。

ハイデガーの名誉のために言いますが、

もちろん

時間についての考察も

様々な講義の中で行われています。

そうした講義を参照すると、

「時間」についても

さっきの「存在」と同様に、

単に「今、目の前にある」、

すなわち

単に「現在」だけに関わるのではなく、

「将来」へと

「過去」へとの拡がりをもった現象であることを

示そうとしていたことがわかります。

Q: では最後に、

これは

身もふたもない質問ですが、

『存在と時間』を読む、

あるいは

もっと一般的に言って

哲学を学ぶことは、

われわれのような一般人にとって

何か味があるのでしょうか?

それとも

それは

単なる知的好奇心、

言ってみれば

「趣味」のようなものに過ぎないのか。

A: われわれは生きている以上、

他なるものの「存在」を負わされ、

それに対応するように呼びかけられていると言いました。

このような生の根本的な現実は、

われわれが

「趣味」のように自由に選べるものではありません。

それこそ

身もふたもない話ですが、

われわれにはそのことを真正面から引き受けるか、

ないしは

そこから逃げるかという

二つの選択肢しかないわけです。

前者の選択をした人にとっては、

生きること自体が

物事の真の「存在」を問い続ける営み

そのものになるでしょう。

それは

基本的には、

哲学書を読む、読まないとは関係のないことです。

ですが、

そうした人が

『存在と時間』のうちに、

自分と同じ問題意識が示されていることを見出し、

それを読むことでによって

自身の問題をよりはっきりと認識できるようになる、

ということは

あるかもしれない。

先ほど、

生きることは孤独なことだと言いました。

哲学書は、

われわれが

そのような

孤独な生を背負っていくにあたっての

よき同伴者、

あるいは

対話相手になってくれるのではないでしょうか。

−−−引用はここまでです−−−

 ここからは知古嶋芳琉が書いています。

いやあ、見事なセールス・トークです。

私が学んだセールスの教科書どおりの、

見事な実例を見せつけられた気がいたします。

なぜならば、

まずは、

読者に

健全な問題意識を持たせることに成功しておりますし、

読者を二者択一の罠に追い込む手腕は見事なものです。

しかも、

選択肢は、

他にも幾らでもあるのに

そうとは思わせない文章なんて、

さすがに

東京大学を卒業した秀才だけのことはあります。

この本だけでなく、

前に書いた自分の本も、

ちゃっかり、宣伝しているところなんぞは、

テレビショッピングの出演者なんか、

足元にも及ばない。

こういう上手な売り込み文章に、

まんまとひっかって、

あの田園調布の住人は

この本を読んで、

更に他の本も山ほど買い込んで、

おまけに、

暇を持て余している、

孤独で、

しかも

裕福な社会人、

それも、

年寄りをターゲットに絞り込んだ

大学の

見事なマーケティング戦術に

乗せられたんでしょうな。

これで、

やっと今までに疑問が消えました。

読者に

これだけは言っておかなければなりませんが、

自分の行動の選択肢は

無限に広がっているということだけは、

忘れないでほしい。

手前味噌なお話をすると、

私が引用してきた数々の書籍では、

ここに出てきた

色々な問題の

具体的な解決方法は、

いくらでも

無限にあるということです。

但し、

いくら無限とは言っても、

その無限の選択肢を用意するのは、

あなた以外にはいないことだけは覚えておりてほしい。

何しろ、

あなたの潜在能力に秘められた、

創造的なアイディアを絞り出す力は、

あなたの中にしかないからです。

このような、

潜在能力を開発することができるのが、

コーチングなのです。

まあ、

見事に

マーケティングの技術に乗せられた

田園調布の住人は、

こともあろうに、

大学院の博士課程にまで進み、

博士号まで取ろうという意気込みですから、

大したものです。

私のコーチングの成果とは、

こんなものもあるという、

一つのよい事例であります。

文部大臣になることを目標にしている

福岡県議会の議員も、

私のクライアントの一人です。

ところが、

地元の九州大学を優秀な成績で卒業して、

その九州大学に就職して、

講師か助手にでもなっていたのでしょうが、

いつまでも九州大学には居られなくて、

九州の片田舎の

駅弁大学の助教授にはなれたものの、

いつまで経っても教授にしてもらえず、

更に、

他の大学に、

たらい回しにされて、

ようやく教授にさせてもらった人がいますが、

この人には、

ほとほと、

手を焼かされました。

大学の教授とか助教授なんて、

相手にするもんじゃありませんね。

そういいたくなるほど手こずった。

何しろ、

自分の毎日のお小遣いさえ、

自分で管理できない人でした。

ですから

奥さんから、

毎日、

500円を渡されて、

その範囲で食べられる昼ご飯を食べていました。

一か月分とか、一週間分とか、

まとまったお金を持たせると、

すぐに使い果たしてしまうという

悪い癖が、未だに治らない。

小学生以下です。

そんな人間が、

大学では教授とよばれて、

いや、先生、先生と呼ばれて

ふんぞり返って、

大学の教室で教鞭をとっているというのですから、

驚きです。

世も末じゃ。


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