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2019年12月11日14:16

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【そもそも人間学とは何か】71歳の爺さんのくせに、ハイデッガーの何とかを研究しているとは(前半)

知古嶋芳琉です。

 昨晩は、

決して、こちらから電話なんぞかけない相手なのに、なぜか、

気になったことがあったので、

その相手に衝動的に電話をかけてしまいました。

 その相手というのは、

今までの私のブログに度々登場した、

田園調布の住人であります。

 この前の電話では、

上智大学で、西田哲学を勉強している、

と言っていたかと思うと、

今度は、

私と同い年の71歳の爺さんのくせに、

明治大学に籍を置いて

ハイデッガーの何とかを研究しているというのが、

気になってしょうがないのであります。

 なんで、あんな爺さんが、私立とは言え、

国内でも有名な大学に籍を置くことができるのか、

不思議でならない。

 あいつは、そもそも、話し方が大雑把で、

しかも、

いつまで経っても、関西弁でまくしたてる癖が抜けません。

 今となっては、

東京での生活が一番長くなっているはずなのに、

長年勤めた会社が関西の会社だったから、

周りが関西弁ばかりだったのは想像に難くはないものの、

あの関西弁独特の、

何でも、いい加減に済ませてしまう、締まりのなさには、

日頃から煙に巻かれてしまっているだけに、

腹が立って仕方がない。

 関西弁に対する、

私のこんな怒りがご理解いただける人が、

果たして、何人いるのかなんて、

考えたこともありませんが、

私のような人間が存在することだけでも

知っていただきたいものです。

 こんな私の発言を聞いた関西人の人が

どう感じるかなんて、まるで分かりませんが、

彼らにしてみれば青天の霹靂といったところでしょうか。

 で、いい加減で、肝心な本題に入って参ります。

 なぜ、私と同い年の爺さんが

有名大学に籍を置くなどと言えるのか、

問い質してみると、

ちゃんと入学試験を受けたという。

 上智大学では修士課程で、

明治大学では博士課程の前期なんだそうで、

これもまた、

あいつの、いつもの言い回しで、

何か裏があるに違いありません。

 まあ、どこの大学も、

少子高齢化の荒波にもまれておりまして、

定員割れから逃れるためなら、

何の見境もなく、

どんな手段でも講じているのが現実ですから

低開発国からの留学生の受け入れなんて、

全国の大学がやっていることだし、

金儲けのためなら

何でもやるのが私立の大学ですから、

マグロの養殖だって

平気でやってしまう時代です。

 私らのような、

年寄りの、

物好きな

暇人なんて、

格好の餌食にされます。

 しかも、

ありとあらゆる業界が、

私たち年寄りの懐をねらっておりまして、

未だかつてない市場を巡って、

前代未聞の、一大商戦を展開しているのが、

現在の日本の真の姿なのであります。

 こういうことは、

決して、

目で見て分かるものではなくて、

確かな数字による

統計上の数字を読まなければ、

分からないことなのであります。

 私が大学を卒業して就職すると、

その就職した会社の偉い人から、

何度となく

「感じでものを言うな」と、

お叱りを受けたものでした。

 いやあ、もう50年近くも前のことを、

よくも思い出したものでございます。

 実は、

こういうことも、年を取った年寄りの特徴の一つなんです。

 夕べ食べたおかずも思い出せないくせに、

そんな、若い人がまだ生まれてもいない、

大昔のことなら、

突然思い出したりしてしまうのであります。

 で、

また

お話が

脱線してしまいましたが、

たとえそれが、大学院であっても、

定員割れでもしようものなら

学内では大問題のはずです。

 これを避けるには、

暇を持て余した、

金持ちの、

物好きな老人が

ターゲットにされるのは、

ごくごく自然な流れというものです。

 田園調布の住人のあいつは、

そういう、

マーケティングの餌食にされたに違いありません。

 そして、

その挙句の果ては

どうなるのかと言えば、

どこにも被害者が出ない。

 当の大学は、

入学金から学費まで払ってもらって丸儲けだし、

指定の教科書や参考図書も、

大学の生協で

山ほど買ってくれるから

笑いが止まらない。

 あの田園調布の住人は、

昨晩の電話のどさくさにまぎれて、

毎月10冊くらい

本を買っていると言っておりましたから、

見事に、

彼ら

出版社の

マーケッターの

餌食にされておるのでございます。

 修士課程にしろ、

博士課程にしろ、

書かれた論文が、

どんなにくだらない論文でも、

世間一般の人の目に触れることは、まずありません。

 だから、修士号だろうと、博士号だろうと、

どんなに粗製乱造しようが、

どこにも迷惑がかかりませんし、

文句を言ってくる者はどこにもいません。

 どこの大学の博士号を取ったとしても、

雇ってくれるのは、

ド田舎の駅弁大学くらいなもので、

しかも、

助手でもなければ、

講師でもない、

ただの臨時講師としてしか、雇ってもらえません。

 それも、

一年限りの契約ですから、

今年は何とか就職できたとしても、

来年も雇ってもらえるという保証はどこにもない。

 若くて将来性もあるのに、

正規雇用者になれない若者なら、

掃いて捨てるほど

全国いたるところにいます。

 しかも、

地方に行けば行くほど、

過疎化が著しくて、就職先がない。

 どんなに教育投資をしても、

挙句の果てがこれでは、

国家が衰退の一途をたどるのは、

理の当然というところであります。

 それなのに、

凝りもしないで、

ある

講談社という出版社が作ったホーム・ページには、

なんと、

あの田園調布の住人が言っていた、

あの

ハイデッガーのことが、

いかにも凄い哲学者であるかのように、

あの

東京大学出身の、

自称、学者という人間を使って、

分かりやすく解説しているという。

 年中暇で、

しかも、

物好きな老人とあっては、

喰いつかないほうがおかしい。

ということで、

ここからは、

その講談社のホーム・ページの引用です。

 彼らのマーケティング技術の凄いところを、

とくとご覧ください。 

−−−引用はここからです−−−

結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか

哲学者がこっそり教えます

轟 孝夫

20世紀最大の哲学者のひとり、

マルティン・ハイデガー。

彼が90年前に出版した

『存在と時間』は、

ハンナ・アーレントら哲学者はじめ、

フランスではサルトル、フーコー、ドゥルーズなど

「ポストモダン主義」の

思想家たちに多大な影響を与えた。

また

彼の説く

「本来性」は

日本人の「道」の感覚に通じることから、

日本でも

大変人気の高い哲学書として読み継がれている。

しかし

同書は

「難解の書」としての魅力も放っているため、

チャレンジしてみたものの

意味がわからず

途中で断念した方も多いのではないだろうか?

なかには

「哲学」という言葉のイメージに

敷居の高さを感じ、

手が伸びず

スルーしてしまう方もいるだろう。

このほど

轟孝夫氏が著した

『『存在と時間』入門』は

「ハイデガーが本当に言いたかったこと」を

10年かけて解明した一冊だ。

ハイデガーの説く「存在」とは一体なんなのか?

今回は

特別に

入門の入門として、

誰も解けなかった

その「真理」を

問答形式で

わかりやすく

寄稿していただいた。

−−−ここからは知古嶋芳琉が書いています−−−

どうですか、

この掴みの部分のレベルの高さは、

さすが出版社、

お見事です。

−−ここからは、再度、ホームページの引用に戻ります−−

■ 厳密さゆえにわかりにくい

Q: 20世紀最大の哲学者とされるマルティン・ハイデガー。

その代表的著作が

『存在と時間』ですが、

非常に難解な書として定評(?)があります。

それにしても、

いったいなぜ、それほどまでにも難解なのでしょうか?

A: まず言えるのは、

ハイデガーの言い回しに

独特の難渋さがあるということです。

『存在と時間』執筆前のことですが、

先輩格のヤスパースに論文を見せたところ、

「もう少しわかりやすく書けないのか」と

苦言を呈されたというエピソードがあるくらいです。

また

『存在と時間』の前身となった論文を

雑誌に掲載しようとしたときにも、

担当編集者から

言葉遣いが難しすぎると指摘されました。

 もっとも、

ハイデガーが

書き方をあらためることはありませんでしたが。

好き好んでそういう書き方をしているのではなく、

そういう書き方をするしかないということだったのでしょう。

Q: 「難しくしか書けなかった」のは、

ハイデガーが

性格的に

非常に

論理的に

厳密な人だったから、

正確さを目指したら

そうなってしまった、ということでしょうか?

A: そうですね。

自分の語りたい事柄を

できる限り厳密に語ろうとしたら、

結果的にそうなったのだと思います。

もっとも

カント以来、

「厳密な学」を目指した哲学は、

それ以前の哲学著作に比べて

非常に「難解」になりましたから、

ハイデガーだけの問題とも言えませんが。

Q: 日本人の場合、

通常、

翻訳で読むわけですが、

言葉の問題も大きいのでは

ないでしょうか。

A: おっしゃる通りです。

インド=ヨーロッパ語族に属するドイツ語と日本語では

まったく言語としての「システム」が違います。

あとでお話しする

「存在」という概念も、

日本語で

通常、私たちが考えているものと、

ギリシア以来のヨーロッパでの認識とでは、

実は

かなり

ずれがあるので、

そのことも理解を困難にしているかもしれません。

Q: すると、日本語に訳すのは相当に難しいでしょうね。

A: とくに日本のハイデガー学者の場合、

ハイデガー独自の術語に引っ張られて、

ハイデガーの翻訳だけでしか用いられない、

本来、日本語にはない訳語を作ってしまいます。

そして

今度は

そうした訳語が「定訳」として固定され、

その訳語の使用が

ハイデガーに忠実であることの証明みたいになる。

それで

ハイデガー研究者といえば、

世間から変な言葉を振り回す

秘教集団のように見られてしまうのです。

Q: もともとドイツ人にだってわかりにくいのに、

翻訳で読むと、さらにこんがらがってくる。

まさに

日本人にとっては二重苦です(笑)。

だから

まず

今度の轟さんの本を読んで、

ハイデガーが言いたかったことへの理解を深めてから

本体の

『存在と時間』を読んだ方が、

一般人にはぐっとわかりやすくなる、ということですね?

A: それでは本の宣伝ですよね(笑)。

でも

自分としては、

一度、

ハイデガーが何を言おうとしているのかに立ち返り、

できるだけわかりやすい日本語で語るよう、

精一杯務めたつもりです。

その上で

細部の議論にこだわりすぎることなく、

全体の議論の筋道というか

構造を示すことに重点を置いたので、

拙著をお読みいただければ、

『存在と時間』の議論が

すっきりと見通しやすくなると思います。

■ 人間を「現存在」と呼ぶワケ

Q: では本題に戻りましょう(笑)。

言葉遣いの難解さの1つの例として

解説していただきたいのですが、

『存在と時間』で

ハイデガーは

「人間」のことを

「人間」とは呼ばずに

「現存在」と呼びます。

でも、

なぜ「人間」ではいけないのですか?

A: 「人間」というと、

あの人もこの人も「人間」ということでは

同じになってしまうでしょう?

 でもハイデガーに言わせると、

人間にとって本質的なことは、

「私」と「あなた」、「彼」、「彼女」がそれぞれに、

絶対的に異なった存在であることなんです。

つまり

各自は

それぞれが

「自分だけの」現実に直面しているのであって、

現実問題として、

その「現実」に対応することができるのは、

私以外にはいないわけです。

Q: それは個々人にとっては、また

ずいぶんとシビアな「現実」認識ですよねえ。

救いがないというか。

A: たしかにそうとも言えますが、

自分がそのときそのときに置かれている状況を

よく胸に手を当てて考えれば、

われわれの日々の生き方というのは、

そもそも

そういうものでしかありえないのではないでしょうか。

例えば

何か困ったことがあるとき、

ある人に相談して、

その人から

「こうしたら」とか

「ああしたら」と

アドバイスを受けることがありますよね。

でも、

結局のところ、やはりそれは

「私自身」の問題であって、

いかに親身に相談に乗ってくれたとしても、

その人の問題ではないでしょう?

他人には、

私が置かれている

ほんとう状況はわかりません。

助言されたことをするかしないかも私次第、

またその結果も私が引き受ける他はないですから。

Q: だったら単に「私」と言えばいいのではないでしょうか。

A: 「私」を他の人ではない

「私」たらしめているのは何でしょう。

自分固有の状況に直面して、

その中で自分のあり方を選び取っていくこと、

そして

その繰り返しが

「私らしさ」を形作っていくのではないでしょうか。

単に「私」と言うだけでは、

あたかも

「私」という実体がすでに存在しているかのようで、

今述べた

「プロセス」が抜け落ちてしまわないでしょうか?

ハイデガーは

何よりも、

われわれが

それぞれ

自分固有の「現場」をもっている点を強調したかった。

それで、「現」―存在と言うわけです。

■ 実は研究者でもわからない「本来性」

Q: すでにかなり面倒な話になってきました(笑)。

ただ、

どうやらハイデガーの

基本的なスタンスは

非常に倫理的なんだということは、

わかったような気がします。

「存在」とは何か、

その定義が

当初の問題だったはずなのに、

ハイデガーが

人間の、

じゃなかった、

現存在の「本来的な生き方」

「非本来的な生き方」にこだわるのも、

正しい「認識」は

正しい生き方につながるものでなければならない、

そう考えていたからだったのですね。

でも

この

「本来性」

「非本来性」という言い方も、

一般的には非常に評判が悪いですよね。

自分だけが真理を知っていて、

無知な一般人に

「本当のこと」を教えてやる、

という、

まさに知識人の典型的な「上から目線」。

A: いや、むしろ知識人の方が

「本来性」とか「非本来性」と言うのを嫌がりますよ。

リベラルな価値観からすると、

「本来的な生き方」だとか

「非本来的な生き方」といった

「決めつけ」は

他人の生き方への余計な介入になりますから。

ハイデガーの専門家でも

「本来性」をはずして解釈する人は多いんです。

Q: それは意外です。

A: 私も研究を始めた頃は

「本来性」を真正面から論じるのは

ちょっと恥ずかしいなと思っていました。

でも

自分が

なぜ

ハイデガーに惹かれたのかをよく考えてみると、

やはり

世俗的な生きかたを徹底的に拒絶しているところと、

それに代わる生き方が

提示されているところにあったことは

否定できません。

それで

ある時期からは

臆面もなく

「本来性」を取り上げる路線に転向しました(笑)。

Q: たしかに

「非本来性」、

つまり「ダス・マン」(ひと、世人<せじん>)を論じて

いるところは、

「ひとがそうしてるから」、

「みんながそうしてるから」という

大衆の

右にならえ的なあり方をよく捉えているような気がします。

でも、

「死への先駆」とか

「良心の呼び声」とかの議論が

延々と続くと、

もう、いったい何を言ってるのか・・・。

A: とにかく

「本来性」というやつが理解しにくいんですよ。

さっき研究者が

「本来性」をあまり扱いたがらないと言いましたが、

ハイデガーが語っている内容がよくわからないというのも、

その理由のひとつなんです。

わからないから無視しちゃおうと(笑)。

Q: やっぱりね(笑)。

その「本来性」の議論にも絡んでくると思うのですが、

本書では

ハイデガーのスタンスを

「宗教的」といいますか、

キリスト教と結びつけた議論が目立ちます。

A: じつは『存在と時間』をよく注意して読んでみると、

要所要所で、

今論じていることは

キリスト教の教えを背景としていますよ、

という注記が挿入されていて、

そこで

参照せよと言われているものを調べてみると、

もともと

「本来性」には

神に従った敬虔なあり方、

「非本来性」には

神に背いて「原罪」に囚われた生という

原イメージがあったことがわかるんです。

『存在と時間』は

そうした「宗教」の概念を使わないで、

一人の人間としての

「正しい」あり方がどのように捉えられるかを

示そうとしたのだ、

そう読むと、

「本来性」も「非本来性」も

すっきりわかるようになりました。

(後半につづく)


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